国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
葛川与伊香立庄相論絵図
ふりがな
:
かつらがわといかだちのしょうそうろんえず
解説表示▶
員数
:
1幅、1巻
種別
:
古文書
国
:
日本
時代
:
鎌倉
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
00133
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1991.06.21(平成3.06.21)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
滋賀県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
明王院
管理団体・管理責任者名
:
延暦寺
解説文:
中世葛川の住人は明王院に奉仕しつつ自らの居住権を主張する一方、他所からの霊場葛川への用益権を極力排除するため、隣接する他庄と盛んに堺相論を行った。なかでも同じ無動寺領【むどうじりよう】伊香立庄との堺相論は著名で、鎌倉時代に限っても、現在知られる限り建保六年(一二五六)以下、六度の相論が繰り返されている。この両鋪の絵図は、このうちの文保元(一三一七)・二年の相論の過程で作成されたもので、その内容等から近年は簡略絵図、彩色絵図と称されている。
簡略絵図は、楮紙一〇紙を継ぎ合わせて料紙とし、東の比良山を上にして、南は花折谷付近、北は明王院境内にいたる葛川の谷々を墨線などで描いたものである。図中、中央右寄りの一本杉は他に比較してやや丁寧な筆致をもって描かれ、河川は藍、道は黄土にて淡彩を施し、要所には「下立一本杉」、「文永六年行者打壊炭竈」、「秘所瀧」などの墨書注記がみえる。裏書によれば、本図は文保元年十月二十五日無動寺によって山の絵図等の提出が命じられた際に、明王院において急遽作られたことが知られ、その作成目的は葛川が下立山の北堺の確定を求め、伊香立側の進止権は「一本杉」を堺とすることを示そうとしたものとみられている。
彩色絵図は、楮紙一〇紙を長方形と台形部分を合わせた形に貼り継いだ料紙を用い、簡略絵図と同様、東を上にして、大川(安曇川)と大道(敦賀街道)を軸に、南は伊香立庄境界の途中里より、北は明王院境内に至り、西は峰を挾んで足利家領大見庄、久多庄等と接している。とくに明王院などの建物や樹木等は丁寧に描き分け、全体に朱、緑青、藍、黄土等の顔料をもって彩色をほどこし、朱書注記が多い。本図は文保二年、伊香立庄側が杉尾山の用益権を認めるべきことを訴えたのに対して、この地が霊場葛川の領域内であることを証するために作られたものと考えられており、図中、二か所に炭竈計五口が描かれ、文保二年相論の係争地となった杉尾山付近の炭竈などには詳細な注記がある。
以上二鋪の絵図は、葛川と伊香立庄が文保元年より行った下立山の領域をめぐる堺相論の際に、相論を有利に展開しようとして作成された絵図として、安曇川左岸の霊場葛川の地の景観に独自の主張を含みこんで描かれており、中世葛川と伊香立庄との相論の有り様を具体的に伝えて、中世史研究上に貴重である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
中世葛川の住人は明王院に奉仕しつつ自らの居住権を主張する一方、他所からの霊場葛川への用益権を極力排除するため、隣接する他庄と盛んに堺相論を行った。なかでも同じ無動寺領【むどうじりよう】伊香立庄との堺相論は著名で、鎌倉時代に限っても、現在知られる限り建保六年(一二五六)以下、六度の相論が繰り返されている。この両鋪の絵図は、このうちの文保元(一三一七)・二年の相論の過程で作成されたもので、その内容等から近年は簡略絵図、彩色絵図と称されている。 簡略絵図は、楮紙一〇紙を継ぎ合わせて料紙とし、東の比良山を上にして、南は花折谷付近、北は明王院境内にいたる葛川の谷々を墨線などで描いたものである。図中、中央右寄りの一本杉は他に比較してやや丁寧な筆致をもって描かれ、河川は藍、道は黄土にて淡彩を施し、要所には「下立一本杉」、「文永六年行者打壊炭竈」、「秘所瀧」などの墨書注記がみえる。裏書によれば、本図は文保元年十月二十五日無動寺によって山の絵図等の提出が命じられた際に、明王院において急遽作られたことが知られ、その作成目的は葛川が下立山の北堺の確定を求め、伊香立側の進止権は「一本杉」を堺とすることを示そうとしたものとみられている。 彩色絵図は、楮紙一〇紙を長方形と台形部分を合わせた形に貼り継いだ料紙を用い、簡略絵図と同様、東を上にして、大川(安曇川)と大道(敦賀街道)を軸に、南は伊香立庄境界の途中里より、北は明王院境内に至り、西は峰を挾んで足利家領大見庄、久多庄等と接している。とくに明王院などの建物や樹木等は丁寧に描き分け、全体に朱、緑青、藍、黄土等の顔料をもって彩色をほどこし、朱書注記が多い。本図は文保二年、伊香立庄側が杉尾山の用益権を認めるべきことを訴えたのに対して、この地が霊場葛川の領域内であることを証するために作られたものと考えられており、図中、二か所に炭竈計五口が描かれ、文保二年相論の係争地となった杉尾山付近の炭竈などには詳細な注記がある。 以上二鋪の絵図は、葛川と伊香立庄が文保元年より行った下立山の領域をめぐる堺相論の際に、相論を有利に展開しようとして作成された絵図として、安曇川左岸の霊場葛川の地の景観に独自の主張を含みこんで描かれており、中世葛川と伊香立庄との相論の有り様を具体的に伝えて、中世史研究上に貴重である。