国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
飯野家文書
ふりがな
:
いいのけもんじょ
解説表示▶
員数
:
1683通
種別
:
古文書
国
:
日本
時代
:
鎌倉~江戸
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
00147
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1994.06.28(平成6.06.28)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
福島県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
個人
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
飯野八幡宮の宮司家飯野家に伝来した文書で、元久元年(一二〇四)八幡宮領好島庄【よしまのしよう】田地目録注進状案以下千六百八十三通を存する。
飯野八幡宮は、文治二年(一一八六)、源頼朝が石清水八幡宮を磐城郡好島庄に勧請して建立したと伝える。好島庄は、石清水八幡宮を本家とする関東御領であり、同庄預所が飯野八幡宮神主を兼帯し、宝治合戦後、三浦氏に替わって、幕府政所執事伊賀光宗(光西)が西方預所兼神主職に補任された。伊賀(飯野)氏は、盛光の代に土着、尊氏方に属して戦功を重ね、地頭岩城一族との対立を繰り返しつつ、八幡宮と社領の基礎を固め、明応年間を契機に岩城氏の支配下に入り、以後は、神主職のみを代々継承して現在に至っている。
本文書のうち中世文書は二百十通を数え、飯野家の歴史を反映して、関東下知状、御教書、奉行人奉書、申状、軍忠状などがまとまっている。なかでも、鎌倉末期より南北朝期にかけて八幡宮とその社領の維持のために奔走した伊賀盛光に関わる文書がほぼ三分の二を占めているのが特徴である。このほかでは八幡宮の内部構成と好島庄の規模を示した元久元年八幡宮領好島庄田地目録注進状案、文永六年(一二六九)幕命によって行われた鳥居造立の配分状とその差図をはじめ、伊賀氏の領主経営の実態や、地頭岩城一族の動向を明らかにする相論関係のものが多く含まれる。
近世以降の文書は、飯野八幡宮の変遷を具体的に伝え、神領支配の様相、神主支配下における神官供僧の関係を示すものや、維新後の神仏分離関係史料などがまとまっている。
以上のように本文書は、東北地方の庄園を代表する好島庄の基本史料で、関東御領と在地領主制、奥州管領の動向など、中世奥州の歴史を考える上に重要である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
飯野八幡宮の宮司家飯野家に伝来した文書で、元久元年(一二〇四)八幡宮領好島庄【よしまのしよう】田地目録注進状案以下千六百八十三通を存する。 飯野八幡宮は、文治二年(一一八六)、源頼朝が石清水八幡宮を磐城郡好島庄に勧請して建立したと伝える。好島庄は、石清水八幡宮を本家とする関東御領であり、同庄預所が飯野八幡宮神主を兼帯し、宝治合戦後、三浦氏に替わって、幕府政所執事伊賀光宗(光西)が西方預所兼神主職に補任された。伊賀(飯野)氏は、盛光の代に土着、尊氏方に属して戦功を重ね、地頭岩城一族との対立を繰り返しつつ、八幡宮と社領の基礎を固め、明応年間を契機に岩城氏の支配下に入り、以後は、神主職のみを代々継承して現在に至っている。 本文書のうち中世文書は二百十通を数え、飯野家の歴史を反映して、関東下知状、御教書、奉行人奉書、申状、軍忠状などがまとまっている。なかでも、鎌倉末期より南北朝期にかけて八幡宮とその社領の維持のために奔走した伊賀盛光に関わる文書がほぼ三分の二を占めているのが特徴である。このほかでは八幡宮の内部構成と好島庄の規模を示した元久元年八幡宮領好島庄田地目録注進状案、文永六年(一二六九)幕命によって行われた鳥居造立の配分状とその差図をはじめ、伊賀氏の領主経営の実態や、地頭岩城一族の動向を明らかにする相論関係のものが多く含まれる。 近世以降の文書は、飯野八幡宮の変遷を具体的に伝え、神領支配の様相、神主支配下における神官供僧の関係を示すものや、維新後の神仏分離関係史料などがまとまっている。 以上のように本文書は、東北地方の庄園を代表する好島庄の基本史料で、関東御領と在地領主制、奥州管領の動向など、中世奥州の歴史を考える上に重要である。