国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
後法興院記
ふりがな
:
ごほうこういんき
解説表示▶
員数
:
3巻27冊
種別
:
古文書
国
:
日本
時代
:
室町
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
00164
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1997.06.30(平成9.06.30)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
京都府
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
財団法人陽明文庫
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
『後法興院記』は、室町時代後期の公卿であった関白太政大臣近衛政家(一四四四-一五〇五)の自筆日記で、『後法興院政家記』とも呼ばれている。記主の政家は、近衛房嗣の二男で、寛正四年(一四六三)に従三位に叙されたが、その前年に兄教基が早世したので近衛家の後嗣となり、文明十一年(一四七九)に関白・氏長者、長享二年(一四八八)に太政大臣、明応六年(一四九七)には准三后に昇り、永正二年(一五〇五)六月に六二歳で薨じた。
陽明文庫に伝来した自筆原本は、巻子本三巻と冊子本二七冊からなる。所収記事は、政家が二二歳で権中納言であった寛正七年(一四六六)の正月一日から、永正二年六月四日までを存し、その間、文明元年(一四六九)から同十年までの一〇年分と、文明十七年の巻首から二月八日条途中、五月四日条から二十六日条前半までを欠くが、ほぼ三〇年分が連続して伝わっている。
体裁は、文正元年・翌応仁元年(一四六七)・同二年の分は巻子本で、白茶後補表紙を装し、「文正元年 後法興院御記」などの墨書外題があり、各巻の首題や尾題の下には年紀、政家の署名あるいは花押がある。本文料紙は、それぞれ長禄二年、寛正六・七年の具注暦や寛正六年の仮名暦などを翻して用い、本文は一紙約二五行、一行二三字前後に書写され、首付や文中の書き込み訂正も随所にみられる。
袋綴冊子本は、文明十一年以降の分で、共紙表紙に「文明十一年記」などの外題、見返しに数行の標目を記している。首題下には年紀、政家の官途に加えて花押をすえたものも多く、末に尾題がある。詩歌懐紙や書状類の書き止しのほか、他所からの書状などの反故を翻し半截して料紙とした袋綴横本で、本文は半葉二二行、一行一七字前後に書写される。文中には一部に加筆の跡もみえるが、巻子本に比較して清書本的な性格の書写体裁をなしている。
これらの内容は、応仁・文明の乱の激動期に枢要の職を歴任した政家の経歴を反映して、武家・公家の政界の機微、東西両軍の合戦の様相、藤氏氏長者としての伝統的儀式や教養、さらに家領の維持経営にかかわる記述も少なくない。
たとえば、文正二年正月十六日条以下には、畠山政長が山名持豊の支持を受けた畠山義就に上御霊社で敗れたことが応仁の乱の引き金となったことなど、不安な世相を具体的に記している。こうした戦乱の状況下で、政家は近日中に起こるであろう大乱に備え、「代々御記等五十合」を疎開させたが(文正元年八月九日条)、その後、応仁元年八月の武衛方の乱入で近衛邸は焼失するなど(同月十六日条)、近衛家歴代の日記類の伝来の事情も知られて興味深い。
また、明応九年(一五〇〇)六月七日条で、応仁の乱勃発後、三〇数年もの間途絶えていた祇園の山鉾巡行の復興に関する記事は、しだいに町衆の祭となっていく祇園会の変遷の一端を伝えている。このほか、本記には、宗祇ら文人等との交流、公武間の文芸活動の展開をはじめ、火事や乱闘・一揆にいたる京都市井の動向等々、注目すべき内容を収めている。
以上、『後法興院記』は、五摂家筆頭として戦国期の最も波乱に富んだ時代に生涯をおくった政家の自筆日記として、室町時代後期における政治・経済社会・文化史研究上の基本史料として価値が高い。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
『後法興院記』は、室町時代後期の公卿であった関白太政大臣近衛政家(一四四四-一五〇五)の自筆日記で、『後法興院政家記』とも呼ばれている。記主の政家は、近衛房嗣の二男で、寛正四年(一四六三)に従三位に叙されたが、その前年に兄教基が早世したので近衛家の後嗣となり、文明十一年(一四七九)に関白・氏長者、長享二年(一四八八)に太政大臣、明応六年(一四九七)には准三后に昇り、永正二年(一五〇五)六月に六二歳で薨じた。 陽明文庫に伝来した自筆原本は、巻子本三巻と冊子本二七冊からなる。所収記事は、政家が二二歳で権中納言であった寛正七年(一四六六)の正月一日から、永正二年六月四日までを存し、その間、文明元年(一四六九)から同十年までの一〇年分と、文明十七年の巻首から二月八日条途中、五月四日条から二十六日条前半までを欠くが、ほぼ三〇年分が連続して伝わっている。 体裁は、文正元年・翌応仁元年(一四六七)・同二年の分は巻子本で、白茶後補表紙を装し、「文正元年 後法興院御記」などの墨書外題があり、各巻の首題や尾題の下には年紀、政家の署名あるいは花押がある。本文料紙は、それぞれ長禄二年、寛正六・七年の具注暦や寛正六年の仮名暦などを翻して用い、本文は一紙約二五行、一行二三字前後に書写され、首付や文中の書き込み訂正も随所にみられる。 袋綴冊子本は、文明十一年以降の分で、共紙表紙に「文明十一年記」などの外題、見返しに数行の標目を記している。首題下には年紀、政家の官途に加えて花押をすえたものも多く、末に尾題がある。詩歌懐紙や書状類の書き止しのほか、他所からの書状などの反故を翻し半截して料紙とした袋綴横本で、本文は半葉二二行、一行一七字前後に書写される。文中には一部に加筆の跡もみえるが、巻子本に比較して清書本的な性格の書写体裁をなしている。 これらの内容は、応仁・文明の乱の激動期に枢要の職を歴任した政家の経歴を反映して、武家・公家の政界の機微、東西両軍の合戦の様相、藤氏氏長者としての伝統的儀式や教養、さらに家領の維持経営にかかわる記述も少なくない。 たとえば、文正二年正月十六日条以下には、畠山政長が山名持豊の支持を受けた畠山義就に上御霊社で敗れたことが応仁の乱の引き金となったことなど、不安な世相を具体的に記している。こうした戦乱の状況下で、政家は近日中に起こるであろう大乱に備え、「代々御記等五十合」を疎開させたが(文正元年八月九日条)、その後、応仁元年八月の武衛方の乱入で近衛邸は焼失するなど(同月十六日条)、近衛家歴代の日記類の伝来の事情も知られて興味深い。 また、明応九年(一五〇〇)六月七日条で、応仁の乱勃発後、三〇数年もの間途絶えていた祇園の山鉾巡行の復興に関する記事は、しだいに町衆の祭となっていく祇園会の変遷の一端を伝えている。このほか、本記には、宗祇ら文人等との交流、公武間の文芸活動の展開をはじめ、火事や乱闘・一揆にいたる京都市井の動向等々、注目すべき内容を収めている。 以上、『後法興院記』は、五摂家筆頭として戦国期の最も波乱に富んだ時代に生涯をおくった政家の自筆日記として、室町時代後期における政治・経済社会・文化史研究上の基本史料として価値が高い。