国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
須佐宝泉寺・黄帝社奉納船絵馬
ふりがな
:
すさほうせんじ・こうていしゃほうのうふなえま
須佐宝泉寺・黄帝社奉納船絵馬
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員数
:
49点
種別
:
信仰に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00224
指定年月日
:
2010.03.11(平成22.03.11)
追加年月日
:
指定基準1
:
(六)信仰に用いられるもの 例えば、祭祀(し)具、法会具、奉納物、偶像類、呪(じゆ)術用具、社祠(し)等
指定基準2
:
(二)時代的特色を示すもの
指定基準3
:
所在都道府県
:
山口県
所在地
:
萩市堀内355番地
保管施設の名称
:
萩博物館
所有者名
:
宝泉寺
管理団体・管理責任者名
:
須佐宝泉寺・黄帝社奉納船絵馬
解説文:
詳細解説
この資料は、萩市須佐高山に所在する宝泉寺とその鎮守社として祀られている黄帝社に奉納された船絵馬である。海上安全を祈願した絵馬と、海上での遭難から救われたことを感謝して奉納された絵馬に大別される。須佐高山に寄港した北前船の船乗りや船主が奉納したもので、奉納者の範囲が日本海側の広範囲に及ぶうえ、奉納年代が江戸時代後期から明治期という西回り航路の廻船活動が盛んに行われた時期にあたる。また、難船絵馬が比較的多くみられるのも特徴の一つである。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
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須佐宝泉寺・黄帝社奉納船絵馬
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解説文
この資料は、萩市須佐高山に所在する宝泉寺とその鎮守社として祀られている黄帝社に奉納された船絵馬である。海上安全を祈願した絵馬と、海上での遭難から救われたことを感謝して奉納された絵馬に大別される。須佐高山に寄港した北前船の船乗りや船主が奉納したもので、奉納者の範囲が日本海側の広範囲に及ぶうえ、奉納年代が江戸時代後期から明治期という西回り航路の廻船活動が盛んに行われた時期にあたる。また、難船絵馬が比較的多くみられるのも特徴の一つである。
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詳細解説
この資料は、萩市須佐高山に所在する宝泉寺とその鎮守社として祀られている黄帝社に奉納された船絵馬で、現在は萩博物館に寄託され保管されているものである。 海上安全を祈願した絵馬と、海上での遭難から救われたことを感謝して奉納された絵馬に大別される。宝泉寺と黄帝社のある須佐高山は、江崎と須佐の港の中ほどにあり、絵馬はこれらの港に寄港した船乗りや船主たちによって奉納されたものである。 宝泉寺及び黄帝社には全部で67点の絵馬が奉納されているが、そのうち49点が船絵馬である。これらの絵馬の奉納年代は江戸時代後期から明治期に及び、最も古いものは、享和4年(1804)のものである。 須佐高山は、北前船の船乗りにとって航海の目印であっただけでなく、寛保元年(1741)書き上げの「瑞林寺由来書」(『防長寺社由来』所収)には黄帝社は「狗留尊仏黄帝小社」と呼ばれて海上安全の神として信仰されたことが記されている。また、長州藩の編纂した『風土注進案』には「沖行く船は帆を下げて敬拝」したと記されている。 西回り航路を行き来する北前船の活動が活発になるにつれ、日本海各地に風待ち、潮待ちの港が発展した。須佐や江崎もそのような港の一つであり、須佐浦は『風土注進案』によれば、「諸国廻船の湊にして年中登り下り風待潮まち等の船出入絶間無御座候」と記され、諸国の廻船が風待ち、潮待ちのために数多く寄港したことがうかがえる。宝泉寺と黄帝社に奉納された絵馬も、須佐の港のそのような性格を反映して、防長二国のみならず能登や越前、丹後、出雲、石見、隠岐など日本海側各国の船頭や船主たちによって奉納されたものが多数見られる。また、宝泉寺及び黄帝社の板壁には一面に参拝者の記した墨書が見られる。墨書は江戸時代後期から近年に至るものまであり、それらには「海上安全」と書かれたものや、「越中國射水郡伏木村」、「石見國濱田町大字松石」、「備後國鞆津湊 舛屋内 仲征丸水主」、「廣島県佐伯郡大竹村」などと参拝者の住所が記されたものがあり、広い範囲から船乗りたちの信仰を集めていたことがうかがえる。 絵馬の中には海上航行中に嵐に遭い難船しかかった様子を描いた難船絵馬が9点見られる。強風に遭い船が難破しかかると、船頭は積荷を海中に捨てて帆を降ろし帆柱を倒して難破を防いだというが、それでも難破を免れぬ場合には、乗組員は髷を切り、船霊や金毘羅など海上安全の神を祈って遭難を免れようとしたという。難船絵馬の画面には帆を降ろし波に翻弄されている廻船と、画面上部には難船を救いに来てくれる神を表したと思われる雲に乗った御幣が描かれ、それに向かって祈る髷を落とした乗組員が描かれているものもみられる。このような難船絵馬が他の地域でみられるまとまりと比較して多くみられるのも本件の特徴の一つである。 これらの絵馬のもう一つの特徴は、判明している奉納者の範囲が日本海側の広範囲の地域に及ぶことであり、また、その奉納年代が江戸時代後期から明治期に至るもので、ちょうど日本海を行き来する西回り航路の廻船活動が盛んに行われた時期にあたる。これら廻船の発展に伴って日本海各地から絵馬が奉納されたと考えられるのである。 奉納された絵馬は、そのほとんどが木製で形状は幅広の縁がついた横長の長方形であるものが多い。多くは板に直接絵を描いているが、船体の版画を貼り付けたものもみられる。なかには欅の板を使用したうえに金箔が施されているものや大坂の船絵馬師が描いたものもみられる。 宝泉寺及び黄帝社への船絵馬奉納が行われた背景には、風待ち、潮待ちの港として、須佐や江崎の港に多くの船が出入りするようになったことがある。出入りする船の船乗りや船主たちが造船にまつわる神、海上安全の神として知られていた黄帝社及び宝泉寺に絵馬奉納を行ったものと思われる。 現在知られている船絵馬のまとまりとしては最も西側に位置し、奉納時期も西回り航路の廻船が活動した時期に集中するなど時代的特色もみられる重要な資料であり、船絵馬奉納の習俗の全国的な比較の上でも重要である。