国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
福應寺毘沙門堂奉納養蚕信仰絵馬
ふりがな
:
ふくおうじびしゃもんどうほうのうようさんしんこうえま
福應寺毘沙門堂奉納養蚕信仰絵馬
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員数
:
23477点
種別
:
信仰に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00226
指定年月日
:
2012.03.08(平成24.03.08)
追加年月日
:
指定基準1
:
(六)信仰に用いられるもの 例えば、祭祀(し)具、法会具、奉納物、偶像類、呪(じゆ)術用具、社祠(し)等
指定基準2
:
(三)地域的特色を示すもの
指定基準3
:
所在都道府県
:
宮城県
所在地
:
宮城県多賀城市高崎1丁目22
保管施設の名称
:
東北歴史博物館
所有者名
:
宗教法人福應寺
管理団体・管理責任者名
:
福應寺毘沙門堂奉納養蚕信仰絵馬
解説文:
詳細解説
本件は、江戸時代半ば以降、養蚕の安全と多収を祈願して福應寺毘沙門堂に奉納された絵馬のまとまりである。小絵馬がほとんどで、毘沙門天の使いとされるムカデの姿や「百足」などの文字が描かれている。毘沙門堂に詣って絵馬を1枚借り、家に飾って養蚕の安全を祈願し、無事養蚕が終了すると新たに1枚加え2枚にして奉納するという習俗にもとづいて奉納されたものである。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
福應寺毘沙門堂奉納養蚕信仰絵馬
福應寺毘沙門堂奉納養蚕信仰絵馬
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福應寺毘沙門堂奉納養蚕信仰絵馬
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解説文
本件は、江戸時代半ば以降、養蚕の安全と多収を祈願して福應寺毘沙門堂に奉納された絵馬のまとまりである。小絵馬がほとんどで、毘沙門天の使いとされるムカデの姿や「百足」などの文字が描かれている。毘沙門堂に詣って絵馬を1枚借り、家に飾って養蚕の安全を祈願し、無事養蚕が終了すると新たに1枚加え2枚にして奉納するという習俗にもとづいて奉納されたものである。
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詳細解説
福應寺毘沙門堂奉納養蚕信仰絵馬は、江戸時代以来、宮城県角田市鳩原の福應寺毘沙門堂に奉納されてきた絵馬のまとまりである。これらの絵馬は、この地域の生業の中で重要な位置を占めていた養蚕の安全と繭の多収を願って奉納されたものである。 絵馬は、毘沙門堂の床下に放り込まれたような状態で奉納されており、それを毘沙門堂の長床いっぱいに山積みにした状態で保管していた。平成3年から7年にかけて絵馬の整理が行われ、全体で24000点近くの絵馬が存在することが確認され、その中から養蚕に関わる信仰にともなって奉納されたものをまとめたものである。 毘沙門堂のある角田市は、宮城県南部の阿武隈川沿いに広がる伊具盆地の北端に位置する。北部と東部は阿武隈高地を境に亘理町、山元町と接し、西は北流する阿武隈川をはさみ柴田町、大河原町、白石市、南は丸森町と接している。この地域は仙南地方と呼ばれ、阿武隈川の氾濫原に位置し、稲作のほか、地元で比較的水害に強いといわれる桑が植えられ、養蚕が盛んに行われてきた。養蚕は江戸時代以来、現金収入を得る生業として重要な位置を占めていた。養蚕が盛んであった頃は春蚕、夏蚕、秋蚕、晩秋蚕と年4回蚕を飼うことが多く、さらには晩々秋蚕も飼って年5回繭をとる家もあった。春蚕は5月中旬、夏蚕は7月、秋蚕は8月、晩秋蚕は9月そして晩々秋蚕は晩秋蚕から10日ほど遅れて掃き立てをした。 養蚕は、温度変化などにより蚕の病気が発生することが多いことに加え、ネズミによる被害も大きかった。ネズミはこの地域で「ヒビツ」と呼ばれる繭の中の蛹を好み、食べようとして繭を食い破る。食い破られると繭の糸が短く切れてしまい売り物にならない上、ネズミは上蔟前の蚕を食べることから、大きな被害をもたらした。 このネズミの被害を除けるために信仰されたのが福應寺毘沙門堂である。この地域では、ネズミはムカデを嫌うとされており、毘沙門天の使いであるムカデが信仰された。特に大きなムカデは独特の臭いを出し、その臭いをネズミが嫌がるといわれている。 毘沙門堂の祭りに参詣し、奉納されている絵馬を借りてきて家の神棚に祀ると、ムカデが家に現れ、養蚕の湿気除けにまいた石灰の上にムカデの足跡が残るようになるという。これを見つけると「神様がござった」といってごちそうを作って祝ったと伝承されている。 絵馬の多くは、毘沙門堂で旧暦1月の最初の寅の日に行われる「初寅」と5月3日に行われる「例祭」の際に参詣した人々によって奉納されてきた。 「初寅」は「ハツトライチ」とも呼ばれていた。この「初寅」には遠方からの参詣者が多く、岩手県南部や福島県の福島市、伊達郡、安達郡、山形県米沢市などからも参詣者があったといわれ、かつてはこれらの参詣者を目当てに市も立って賑わったと伝えられている。 また、「例祭」は、昭和40年代半ばまでは旧暦4月3日に行われ、「毘沙門さんの祭り」とか「シガツミッカ」と呼ばれた。「例祭」においても、多くの店が出て賑わったというが、このときには遠方からの参詣者よりも近在からの参詣者や代参者が多く、より多くの絵馬が奉納された。参詣者達は毘沙門堂に奉納されている絵馬を1枚借りて持ち帰り、翌年の例祭の折に2枚にして返した。 絵馬は数枚を除き、一般的に「小絵馬」と呼ばれる縦横の長さがともに30㎝以下のものであり、上辺を家の屋根状に切り取った形態のものがほとんどである。中には、屋根状に切り取った頂点に紐穴らしいものをあけたものもみられるが、数は少ない。これは、絵馬が毘沙門堂の床に放り込まれるように奉納され、壁などにかけられていたものではないことに由来するものと考えられる。 絵馬は描かれている画題から、毘沙門堂の祭りを描くもの、養蚕などの作業を描いたもの、ムカデの姿のみを描くもの、ムカデの絵と「百足」、「蜈蚣」などの文字を書いたもの、「百足」などの文字だけを書いたものなどに分類できる。これらには、奉納時期や奉納者名が記されているものが多く、奉納時期が記されているものは全体の半数を超える。最も古いものは、明和5(1768)年のものであり、このほか江戸時代のものが62点、さらに明治10年代だけで奉納枚数が4000点ほどあり、この時期が絵馬奉納習俗の最盛期であったことがうかがえる。 また、奉納者の個人名あるいは屋号が記され、奉納者がわかる絵馬も全体の半数を超え、男性のみならず女性の名も1割程度みられる。また、絵馬の裏面に奉納者とは異なる筆跡で「借主」と追記されたものもあり、絵馬返却にあたって追記する習俗があったらしいこともうかがえる。さらに、奉納者の居住地を記した絵馬も全体の半数を超える。その記し方も郡名に加え、市町村名や番地まで記したものなど様々である。記された居住地から奉納者の分布をみると宮城県内の仙台以南が最も多く、その中でも角田市域が多数を占めるが、亘理町、丸森町も多い。 養蚕の神として信仰されているものは、ネコとヘビがよく知られている。その中で、当該地域ではムカデを養蚕の守り神とする信仰を背景にムカデを描いた絵馬を奉納してきたものであり、江戸時代半ば以降「奥州蚕種本場」と称して養蚕の先進地であった現在の福島県北部に隣接する地域で行われてきた、養蚕の安全と繭の多収を祈願する信仰の様相をうかがうことのできるまとまりといえる。また、毘沙門天信仰と結びついた養蚕信仰としても全国的に類例の少ないものである。当該地域における養蚕のあり方や全国的な養蚕信仰との比較の上でも重要なものである。