国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
半田の酢醸造用具
ふりがな
:
はんだのすじょうぞうようぐ
半田の酢醸造用具
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員数
:
323点
種別
:
生産、生業に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
231
指定年月日
:
2016.03.02(平成28.03.02)
追加年月日
:
指定基準1
:
(二)生産、生業に用いられるもの 例えば、農具、漁猟具、工匠用具、紡織用具、作業場等
指定基準2
:
(三)地域的特色を示すもの
指定基準3
:
(四)技術的特色を示すもの
所在都道府県
:
愛知県
所在地
:
愛知県半田市桐ヶ丘4-209-1
保管施設の名称
:
半田市立博物館
所有者名
:
半田市
管理団体・管理責任者名
:
半田の酢醸造用具
解説文:
詳細解説
本件は,愛知県半田市で近世以来,製酢業を営んできた中埜家が使用していた酢の醸造用具である。知多半島は,古くから酒造業が盛んであり,文化年間に,初代又左衛門が酒造の副産物である酒粕を利用して粕酢の生産に成功し,江戸における鮨の流行と呼応して製酢業を発展させた。この中埜家の醸造用具一式が昭和59年に半田市に寄贈され,それらを分類・整理したのが本資料である。
酢の醸造は,明治時代に汽缶が導入され,昭和30年代には機械化が進むが,本資料は,それ以前の伝統的な粕酢醸造の工程である原料処理,フナ場,ワカシ場,仕込,貯蔵,濾過,詰口という7段階の各工程で使用された一連の用具から構成される。その他に,販売用の看板,仕事着,信仰用具が含まれている。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
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半田の酢醸造用具
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半田の酢醸造用具
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解説文
本件は,愛知県半田市で近世以来,製酢業を営んできた中埜家が使用していた酢の醸造用具である。知多半島は,古くから酒造業が盛んであり,文化年間に,初代又左衛門が酒造の副産物である酒粕を利用して粕酢の生産に成功し,江戸における鮨の流行と呼応して製酢業を発展させた。この中埜家の醸造用具一式が昭和59年に半田市に寄贈され,それらを分類・整理したのが本資料である。 酢の醸造は,明治時代に汽缶が導入され,昭和30年代には機械化が進むが,本資料は,それ以前の伝統的な粕酢醸造の工程である原料処理,フナ場,ワカシ場,仕込,貯蔵,濾過,詰口という7段階の各工程で使用された一連の用具から構成される。その他に,販売用の看板,仕事着,信仰用具が含まれている。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
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詳細解説
半田の酢醸造用具は、愛知県半田市において近世以来、製酢業を営んできた中埜家が酢の醸造に使用していた用具を分類、整理したものである。 半田市は、愛知県西部の知多半島にあり、海運業や酒造業、製酢業などの産業によって栄え、知多地方の経済、文化の中心として発展したきたところである。半田における製酢業は、この地域の発展を支えた醸造業の柱であり、中埜家の初代又左衛門が文化年間(1804~1818)に、酒造業の副産物で、酒造りの過程で大量に発生する酒粕を用いて酢をつくることに成功したのがその始まりとされる。酒粕を原材料とし、それを酢酸発酵させて作る酢は、粕酢と呼ばれ、米酢に比べて安価であり、また品質も優れていたことから、江戸における早鮨や握鮨の流行、酢の需要の高まりと相まって売上を伸ばすとともに販路を拡大し、天保年間(1830~1844)には創業時の約30倍の出荷額となるほど大いに発展した。なお、中埜家は、酢屋勘治郎の屋号で製酢業を始め、その後、大正12年に株式会社中埜酢店となり、平成以降の再編を経て、株式会社Mizkan Holdings(ミツカンホールディングス)として現代に至っている。 本資料は、半田市が昭和五十年代の半ばから半田市立博物館の建設に向けて、酢の醸造の歴史や民俗の展示計画を進めるなかで、昭和五十九年九月に当時の中埜酢店から一式寄贈されたもので、現在も同博物館に保管されているとともに、同年10月の開館時から今日に至るまで主要な展示の一つとなっている。収集された資料は、文化8年(1811)に造られた本倉、文久元年(1861)と明治22年にそれぞれ増設された東倉、南倉の3つの醸造場で使用されていたものである。中埜家における酢の醸造は、明治時代後半に汽缶を導入したことによって醸造工程の機械化が進み、昭和三十年代には酢の醸造は完全に機械化されるが、本資料は、それ以前の伝統的な酢の醸造に使われた用具が工程ごとにほぼ揃っている。 酢の醸造は、原料処理、フナ場、ワカシ場、仕込、貯蔵、濾過、詰口という七段階の工程で行われてきた。原料処理は、酒粕を粕倉に搬入し、熟成させて醪をつくる工程で、酒粕の運搬に用いた鉤の付いたチンチョウや麻製のナンキンブクロ、固まった酒粕の塊を崩したカスコナシグワ、酒粕を撹拌したカイなどがある。フナ場は、醪を圧搾して酢酛をつくる工程で、醪を絞る袋であるスブクロ、醪をスブクロに流し入れるのに用いたイチジク型のコドリオケ、大型の圧搾機である箱状のフネと梃棒となるハネボウ、重りのカガリイシなどである。フネは、内部に並べられたスブクロから滲み出た酢酛が流れやすいように、側面には簀子状のヨロイタケ、底部にはスイタと呼ばれる板が付属する。フネの上にもスブクロを並べ、カサと呼ばれる木枠を重ね、作業の効率をあげた。圧搾は半日程自重によって行い、その後順次カサを取り外すと、今度は圧力が均一になるようオシブタを置き、その上に重材で作られたバンギを載せ、ハネボウの先端にカガリイシを吊るしてさらに圧搾した。こうして酢酛と酢粕が分離し、酢酛はフネ底部の口から流れ出て、ヒノクチオケに集められた。ワカシ場は、酢酛を大釜に入れて煮沸し、仕込みに用いるワカシ液をつくる工程で、仕込温度を一定に保つために行われた。酢酛の移動に用いたイナイオケとテンビンボウ、ワカシ液の温度調整や混合に用いたカイ、火の燃え具合を調整したヒツツキボウ、完成したワカシ液を桶などに移すのに用いたヒシャクなどがあり、酢酛の約半分の量が加熱処理された。 仕込は、ワカシ液と残りの酢酛に種酢を入れて混合し、酢酸発酵させて酢をつくる工程である。種酢の量を図ったタネワリサシ、三種類の原料を仕込むのに用いたシコミオケ、保温のために桶を覆ったアツムシロ、桶の目印としたキフダ、発酵熱を調整するため桶の口から酢の面までの空き具合を測ったクウスンサシなどがあり、シコミオケは換気による温度調節がしやすいよう倉の二階に置かれ、仕込から二日で表面に酢酸菌の膜が張り、約一か月で酢ができる。発酵が終わると、酢酸菌の膜を取り除く口切(くちきり)の作業となり、桶底部の管につけて酢の流出を防ぐ木綿製のノミクチブクロ、その下に設置して酢を階下の桶に送るハコトイやヒキズジョウゴなどが使われた。また、酢を流し終えたシコミオケには、不純物であるオリが残されるため、カスリやオリトリハンギリを用いて桶洗いを行った。次いで、貯蔵の工程となり、出来上がった酢をまろやかな味にするためにさらに一か月から三か月ほど寝かせて熟成させる。酢を熟成させた六尺のチョゾウオケ、二次発酵を防ぐために表面を撹拌するのに用いたアジロサバキボウ、酢の熟成量を図った各種のサシなどがある。濾過は、熟成した酢から不純物を取り除く工程で、古くは藁灰を用いた灰ごしが行われていたが、明治四十一年に綿を濾過材とした綿ごしに改良された。これに用いた濾過用のワクとその中に入れ、綿を詰めて使用した袋状のロフ、濾過した酢と標準製品との色度の検査に用いた比色箱などがある。詰口は、完成した酢を出荷用に詰める工程で、酢を計量して樽や壺などに詰めるのに用いた各種のジョウゴ、木製やコルク製の栓、焼印、商標などがある。 このほかに、作業時に着用され、商標などが染め抜かれたカンバンやマエカケなどの仕事着、販売用の看板、醸造場である倉に祀られていた神棚や護符などの信仰用具も含まれている。 本資料は、日本人の食生活と関わりの深い調味料の一つである酢の醸造用具であり、その代表的な産地における体系的な収集として注目されるものである。全国的に知られるミツカン酢の製造元で、当地で粕酢づくりを創始した中埜家伝来の資料であり、酢の醸造工程にそって各種の用具が揃っていて、粕酢醸造の実態を伝える資料群となっており、我が国における酢の伝統的な醸造技術を理解する上で貴重である。また、知多半島の酒造業を背景に発達した半田の産業の地域的特色も示しており、製酢業の変遷を考える上で重要である。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)