国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
行田の足袋製造用具及び関係資料
ふりがな
:
ぎょうだのたびせいぞうようぐおよびかんけいしりょう
○型紙と金型、裁断用具
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員数
:
5,484点
種別
:
生産、生業に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
内訳:製造用具4,219点、関係資料1,265点
※本件は平成27年3月2日に登録有形民俗文化財となっていた。
指定番号
:
263
指定年月日
:
2020.03.16(令和2.03.16)
追加年月日
:
指定基準1
:
(二)生産、生業に用いられるもの 例えば、農具、漁猟具、工匠用具、紡織用具、作業場等
指定基準2
:
(三)地域的特色を示すもの
指定基準3
:
所在都道府県
:
埼玉県
所在地
:
行田市
保管施設の名称
:
行田市郷土博物館
所有者名
:
行田市
管理団体・管理責任者名
:
○型紙と金型、裁断用具
解説文:
詳細解説
行田の足袋は、記録によれば、すでに江戸中期には商品として流通したとみられる。産地化していった背景には、近郊農村であるとともに、中山道をはじめとする街道沿いという立地条件も重なっていたことが、大きな要因としてあげられる。
足袋製造の特色としては、自らが生産と販売を行うといった「足袋屋」が個々それぞれに併存し、地域総体の生業として発達したことにある。やがて近代に入ると、明治初年には諸会社の設立、中期からはミシンや裁断機の導入、各種実用新案の登録などが相次ぎ、明治40年には足袋同業組合の設立をみた。こうして、行田は明治後期から大正期にかけて飛躍的な発展をとげ、産業都市化していったのである。最盛期は昭和戦前期で、全国生産量の約80%に及んだ。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
○型紙と金型、裁断用具
○仕上げ用具と製品、ラベル
○製造用具と製品
仕上げ用具
仕上げ用具と製品
製造用具と製品
縫製用のミシン
縫製用のミシン9台
縫製用のミシンと椅子、籠
写真一覧
○型紙と金型、裁断用具
写真一覧
○仕上げ用具と製品、ラベル
写真一覧
○製造用具と製品
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仕上げ用具
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仕上げ用具と製品
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製造用具と製品
写真一覧
縫製用のミシン
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縫製用のミシン9台
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縫製用のミシンと椅子、籠
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解説文
行田の足袋は、記録によれば、すでに江戸中期には商品として流通したとみられる。産地化していった背景には、近郊農村であるとともに、中山道をはじめとする街道沿いという立地条件も重なっていたことが、大きな要因としてあげられる。 足袋製造の特色としては、自らが生産と販売を行うといった「足袋屋」が個々それぞれに併存し、地域総体の生業として発達したことにある。やがて近代に入ると、明治初年には諸会社の設立、中期からはミシンや裁断機の導入、各種実用新案の登録などが相次ぎ、明治40年には足袋同業組合の設立をみた。こうして、行田は明治後期から大正期にかけて飛躍的な発展をとげ、産業都市化していったのである。最盛期は昭和戦前期で、全国生産量の約80%に及んだ。
詳細解説▶
詳細解説
行田の足袋製造用具及び関係資料は、埼玉県行田市の地場産業としての足袋製造に関する用具とその関係資料を収集し、整理・分類したものである。 行田市は、埼玉県北部に位置し、ほぼ全域が利根川と荒川に挟まれた沖積平野となっており、高低差もほとんどなく、総じて海抜20m前後の平坦な地勢を有する。交通網としては、これら河川のほか、日光脇往還や館林道が通り、中山道とも接していたことから、往来には至便であった。東京・日本橋からは、およそ60km圏にあたる。 近世において、行田は忍藩の城下町として栄えた。足袋製造の端緒については、下級武士の内職として興ったとの口碑もあるが、定かではない。ただ、史料として、享保年間(1716~1736)の町絵図に足袋屋3軒の記載があり、この時点で幾ばくかの製造が行われていたことがうかがえる。また、明和2年(1765)の『東海木曽両道中懐宝図鑑』には「忍(行田)のさし足袋名産也」とあって、当時の道中案内に名産と評されるほど、江戸中期には既知の商品として流通していたものとみられる。さし足袋とは、糸を刺して丈夫にしたもので、主として旅行や作業用などに使われた、いわゆる紺足袋のことで、こうした背景には街道沿いという行田の地理的な優位性も都合よく影響していた。 行田の足袋の生産的特質は、すでに天保年間(1830~1844)には下請けなどの分業化がみられ、足袋商いと称して自ら生産と販売を行うことにより、産地問屋の手を経ない、製造卸としての「足袋屋」が個々に併存・集住し、地域総体の生業として発達したことにある。天保期ではその数27軒を数えた。また、近郊農村という特性を前提として、当地周辺が木綿の旺盛な産地であったことから、足袋の表地が安定的に確保できたという地の利があった一方、足袋屋は各々独自の販路を開拓するなかで、他地域産の裏地や足袋底の仕入れ先も併せて獲得していった。いわばこの自立性が、産地問屋の介在や一大商社への集約化を必要とさせなかった要因でもある。このような産地形成を背景として、多種多様な生地を製品の種類とサイズに応じて組み合わせ、それぞれに巧みな技を駆使してきたことに、行田の足袋製造の特色がある。 明治期に入ると、当地にも近代化の荒波が押し寄せてくる。明治初年には諸会社の起立、中期以降からはミシンや裁断機の導入、各種実用新案の登録、あるいは隣接諸地域に先んじて銀行や馬車鉄道、電信電話、電灯などのインフラ整備等々が次々と図られ、日露戦争後の同40年(1907)には足袋同業組合を設立、製造卸業者(足袋屋)も67軒となった。こうして、行田は足袋製造を中心に、明治後期から大正期にかけて飛躍的な発展をとげ、産業都市化していったのである。最盛期は昭和戦前期で、全国生産量の約80%に及び、昭和13年時では8,400万足以上を生産している。行田の足袋製造は、もとより中小企業的な集合体の方向にあって、相互の経済的な依存関係は薄く、地域内での過当競争を起因とした対立や内紛も希であったという、独特な業界構造を作り上げていったのである。 製作工程は、生地を伸ばして重ねる「ひきのし」にはじまり、親指側や四本指側の部位ごとの「裁断」、足首を留めるコハゼの掛け糸を布に通す「掛通し」、それを縫い付けて固定する「押さえ」、コハゼを付す部分を補強する「ハギマチ」、コハゼを縫い付ける「コハゼ付け」、足首部分を縫う「羽縫い」、甲部分を縫合する「甲縫い」、踵を丸く縫う「尻止め」、爪先部分を縫合する「爪縫い」、それ以外と底部分を縫合する「廻し」、ほつれ止めのための「千鳥」、表に返して整形する「仕上げ」の順となる。大きくは裁断と縫製、仕上げに分けられるが、明治中期以降に裁断機やミシンが導入されたことにより、分業化はより一層、進展していった。 製造用具としては、裁断用の包丁や足の採寸に用いた文木、ゲンコウと呼ぶ多様な型紙、仕上げの際に形を整えるボッキやヘラ、縫い目を潰して柔らかくする木槌など、手縫い時代から変わらず使用されてきた用具があり、作業に則して特化した傾向が認められる。さらに、裁断用の金型や裁断機、用途に応じて異なる各種工業ミシンなど、大量生産を可能とさせた用具もあり、機械の導入を経て現在に至るまでの変遷過程がよくわかる。また、製品としては、防寒のみならず作業や儀式用(白足袋)の足袋など、その使い勝手によってキャラコや別珍、綾紺、コール天といった、様々な素材を用いた製品を手掛けてきたことが読み取れる。その他、関係資料としては、看板類や商標ラベルなども幅広く収集されている。資料年代は、江戸末期から昭和期に及ぶ。 これらのうち、特に足袋型紙は3,000点以上もの収集があって、裁断する生地の種類などにより、細かに異なる寸法を有しており、足袋の着用においてはフィット感が希求されていたことがうかがえるとともに、かつての日本人の足形を抽出することも可能である。また、商標ラベルからは、産地名表示の記載のないことが看取でき、これは自分商標といって、産地の認証を要さない当地特有の自製自販のあり方がよく反映されている。