国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
吉田口の富士山信仰用具
ふりがな
:
よしだぐちのふじさんしんこうようぐ
吉田口の富士山信仰用具
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員数
:
4,039点
種別
:
信仰に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
266
指定年月日
:
2022.03.23(令和4.03.23)
追加年月日
:
指定基準1
:
(六)信仰に用いられるもの 例えば、祭祀(し)具、法会具、奉納物、偶像類、呪(じゆ)術用具、社祠(し)等
指定基準2
:
(三)地域的特色を示すもの
指定基準3
:
所在都道府県
:
山梨県
所在地
:
富士吉田市
保管施設の名称
:
ふじさんミュージアム
所有者名
:
富士吉田市
管理団体・管理責任者名
:
吉田口の富士山信仰用具
解説文:
詳細解説
吉田口の富士山信仰用具は、富士山北側の登山口である山梨県富士吉田市の「吉田口」に伝来した富士山信仰の用具である。吉田口は、近世中期以降、富士登拝を目的とする富士講が江戸を中心に関東地方で盛んになると多くの参詣者を集め、富士山信仰の一大拠点として栄えた。本収集は、登拝者の世話をした御師や各地の富士講から寄贈されたものが多く、御師の祭祀用具をはじめ、宿坊や山小屋で使われた用具、富士講の奉納物などから構成される。また、富士講中興の祖といわれる食行身禄の関連資料も含まれる。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
吉田口の富士山信仰用具
身禄関連資料
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吉田口の富士山信仰用具
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身禄関連資料
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解説文
吉田口の富士山信仰用具は、富士山北側の登山口である山梨県富士吉田市の「吉田口」に伝来した富士山信仰の用具である。吉田口は、近世中期以降、富士登拝を目的とする富士講が江戸を中心に関東地方で盛んになると多くの参詣者を集め、富士山信仰の一大拠点として栄えた。本収集は、登拝者の世話をした御師や各地の富士講から寄贈されたものが多く、御師の祭祀用具をはじめ、宿坊や山小屋で使われた用具、富士講の奉納物などから構成される。また、富士講中興の祖といわれる食行身禄の関連資料も含まれる。
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詳細解説
吉田口の富士山信仰用具は、我が国を代表する霊峰である富士山の信仰に用いられたもので、特に山梨県富士吉田市にあり、富士山北側の登山口である吉田口に伝来した信仰用具の収集である。 富士吉田市は、山梨県の東南部、富士山の北麓に位置する。市域の南側は、富士山とその裾野が広がり、市街地は裾野の溶岩台地上に南北に長く形成されている。近世には、北口本宮冨士浅間神社の門前町として栄え、なかでも上吉田地区は、富士山信仰を広め、参詣者の宿泊や登拝の世話をした御師たちが集住する町として発展した。富士山の一ノ鳥居である金鳥居が建つ表通りには、今日でも御師の家並みが残る。 富士山は、その山容の美しさや噴火への畏怖の念から、古くは麓より遥拝する山として崇められ、火山活動が沈静化した平安時代末期以降、僧侶や修験者が山中で修行を行うようになると登拝する山として次第に信仰されるようになる。富士山の登山口は、山梨県側にある吉田口と船津口、静岡県側にある大宮口や村山口、須山口、須走口が古くから知られる。このうち、富士宮市にあり、富士山本宮浅間大社を起点とする大宮・村山口が東海道に面して表口と呼ばれたのに対し、吉田口は北口や裏口とも称されたが、近世中期以降、江戸を中心に関東地方で富士講が盛んになると、富士山の霊験を求める民衆で賑わい、信仰の拠点として多くの登拝者を集めた。 吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、北側から頂上の久須志神社(旧薬師堂)に至る登山道である。昭和三十九年(一九六四)に富士山有料道路(富士スバルライン)が開通すると、五合目から出発するのが一般的となるが、それ以前は、御師の宿坊に泊り、翌朝に出立して、浅間神社を参拝した後、境内裏手の登山門から登りはじめ、馬返しを経由し、三合目の茶屋で昼食をとり、七・八合目の山小屋で一泊する。そして、翌日の夜明け前に山小屋を出発して山頂を目指す、という行程をとることが多かった。 富士山の御師は、登山口の中でも吉田口が軒数が多く、活動も盛んで、近世後期には八〇軒から一〇〇軒近くに及んでいたとされる。御師は、六月朔日の山開きから七月下旬の山仕舞までの開山期間は、吉田口を訪れる登拝者を受け入れ、食事や宿の提供をはじめ、祈祷や祓い、弁当や杖、衣類などの準備、荷運びをする強力の手配など一切の世話を行った。この夏山の前後の期間は、神札や護符、手土産などを持参して富士講などの檀家を回って歩き、関係の維持や布教に努めた。一方、登拝する側の人々は、檀家となっている特定の御師の宿坊を定宿として利用し、なかでも江戸の富士講はその中心的な集団で、祭祀用具や額類、食器類など様々なものを御師の宿坊に奉納している。 また、富士登拝を支えた施設に山中に点在する山小屋がある。山小屋は、五合目から下は森林帯にあり、木造で休息所としての利用が多く、茶屋とも呼ばれた。一方、六合目から上は、岩場で風雨を遮るものがないため、小屋を石で囲った石室と呼ばれる強固な造りで、泊り小屋が多くなる。登山道沿いには、神仏を祀る堂社が合目ごとにあり、登拝者はそれらを拝みながら頂上に向かうが、山小屋が管理する堂社も多く、また山小屋内でも神仏を祀っており、山小屋は、休息や宿泊の役割を担うとともに、富士山中における信仰の拠点ともなっていた。 本件は、富士吉田市が、現在のふじさんミュージアムの前身である富士吉田市郷土館を開館した昭和五十四年当初から長年にわたり収集に努めてきたもので、同ミュージアムに収蔵され、その一部は展示公開されている。収集された信仰用具は、市域にある御師の家々や各地の富士講から主に寄贈されたもので、近世前期から、富士登拝のあり方に大きな変化が始まる昭和三十年代までのものである。 信仰用具は、「御師」「山小屋」「講」の三つの資料群から構成される。「御師」は、御師宅に祀られていた神殿や神像、神鏡、幣束、太鼓、八足台などの祭祀用具、装束や採物、神札や護符、版木や印判、旅行鞄や携帯用硯箱などの廻檀用具、膳や盆、椀などの食器や布団、蚊帳などの宿坊用具、菅笠や褞袍、弁当箱などの登山用具、富士講が奉納したマネキや登山成就記念の奉納額などである。マネキは、布や板などに講名や講印などを記したもので、登山時に杖や竿の先につけて講社の目印にしたり、御師が講社を迎える際に玄関先に掲げて使用したりした。布製や板製、紙製があり、そのうち木綿を染め抜いた富士講の布マネキが数多く収集されている。 「山小屋」は、小屋に祀られていた神像や仏像、神殿などの祭祀用具をはじめ、営業用の看板や垂幕、宿泊者用の食器や布団、ランプ、登山用の草履や金剛杖などの販売品、山小屋名や合目などを刻んだ焼判などがあり、標高の高い山中ならではの用具に、貯水用の水タンクや暖房も兼ねて常時湯を沸かした大型の薬缶や茶釜、銅壺、物資の運搬に使った背負子やカンジキなどがある。また、富士講が奉納したマネキや奉納額も多く、小屋の修繕や燃料となる木材の加工に使った大工道具もある。「講」は、富士講関係の用具で、上吉田上宿の村上講と身禄講、東京や埼玉など関東地方の講社が寄贈した祭祀用具や登山用具である。富士講の拝みの文句や教えを記した御身抜や御伝え、祭具一式、講幟、提灯、行衣、杖などが主なものである。 また、本収集には、享保十八年(一七三三)に富士山七合五勺にある烏帽子岩で入定した富士行者で、富士講中興の祖といわれる食行身禄の関連資料も含まれる。身禄の弟子の北行鏡月の末裔である田辺家に伝来したもので、身禄直筆と伝えられる御身抜、生前に使用したとされる腹掛や野袴、帯、団扇、茶碗などのほか、次女まんが刻んだと伝える身禄座像、身禄の十三回忌に制作され、入定の様子を描いた身禄曼荼羅、入定後に烏帽子岩に建立された身禄殿に掲げられていた扁額などがある。