国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
黒石の十三塚
ふりがな
:
くろいしのじゅうさんづか
黒石の十三塚
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員数
:
13基
種別
:
信仰に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00194
指定年月日
:
1993.12.13(平成5.12.13)
追加年月日
:
指定基準1
:
(六)信仰に用いられるもの 例えば、祭祀(し)具、法会具、奉納物、偶像類、呪(じゆ)術用具、社祠(し)等
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県
:
岩手県
所在地
:
奥州市水沢区黒石町字下柳2番13号のうち実測1295.865㎡
奥州市水沢区黒石町字下柳34番1号のうち実測984.000㎡
奥州市水沢区黒石町字下柳42番のうち実測423.370㎡
奥州市水沢区 市道下柳1号線の道路敷のうち実測289.110㎡
保管施設の名称
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
黒石の十三塚
解説文:
詳細解説
わが国の各地には塚に対して特別の信仰を寄せる習俗がみられる。十三塚もその一つで、一三基の塚が並んでいるものに対して命名されたものである。
黒石の十三塚は、岩手県奥州市水沢区黒石町下柳の北上川左岸に位置する。昭和57・58年度に神奈川大学日本常民文化研究所が実施した全国調査により、13基が揃って残る全国17か所の1つであり、全体としての保存状況も良好である。
この塚は、計測結果や個々の塚の立地条件などから、この種の塚の構築方法を推測できるほか、13基のうち中央の7号塚は最大で唯一方形をしていることから、中央の一塚が大きい十三塚築造の本来の形をうかがわせるものともなっている。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
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黒石の十三塚
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黒石の十三塚
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解説文
わが国の各地には塚に対して特別の信仰を寄せる習俗がみられる。十三塚もその一つで、一三基の塚が並んでいるものに対して命名されたものである。 黒石の十三塚は、岩手県奥州市水沢区黒石町下柳の北上川左岸に位置する。昭和57・58年度に神奈川大学日本常民文化研究所が実施した全国調査により、13基が揃って残る全国17か所の1つであり、全体としての保存状況も良好である。 この塚は、計測結果や個々の塚の立地条件などから、この種の塚の構築方法を推測できるほか、13基のうち中央の7号塚は最大で唯一方形をしていることから、中央の一塚が大きい十三塚築造の本来の形をうかがわせるものともなっている。
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詳細解説
我が国の各地には塚に対して特別の信仰を寄せる習俗がみられる。十三塚もその一つで、13基の塚が並んでいるものに対して命名されたものである。明治末年に民俗学者、柳田国男は「十三塚」の研究に先鞭をつけ、後に著書『十三塚考』を著わした。それ以来、十三塚は民俗学の主要な研究のテーマの一つであった。 全国各地に所在する十三塚の数は、200~300か所にのぼるとされていたが、開墾や土木工事によって破壊されたものも多く、その残存状況は近年まで不確定であった。 昭和57・58年度に神奈川大学日本常民文化研究所が全国の十三塚の現況調査を行ったところ、完存するものは10数か所に過ぎず、それらも今後の保存には憂慮すべきものがあると提言されている。 十三塚とは、13基の列塚に対して命名されたもので、13基の土盛の塚(稀に積石塚もある)からなる。低く小さい列塚のうち中央の塚が一段と大きく築造されている型式が多く、13人の武将や非業の死をとげた者を葬ったとする伝説を伴うものが多いが、築造の理由や時期については論議が交わされてきた。供養塚、境界指標、修法壇などの性格が指摘されているが、近年では、その名称を「十三仏塚」とするものもあることから、15~16世紀にかけて成立展開した十三仏信仰にともない築造されたとする説が有力である。 十三仏とは、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・阿弥陀・阿閦【あしゆく】・大日・虚空蔵であり、初七日から三十三回忌までの忌日と結びつけて十三仏が配される。宗派的には、禅宗や真言宗で重んじられており、葬送の際には十三仏の掛軸をかけ、十三仏念仏を唱える習俗もある。 十三仏信仰の成立時期は、文献や石造遺物からして室町時代の15世紀初とみられ、16世紀にかけて、特に盛んであった模様である。十三塚の築造もこの十三仏信仰の流れの中に位置づけられるものとみられる。 黒石の十三塚は、岩手県奥州市水沢区黒石町字下柳の北上川左岸に位置し、標高約50㍍の丘陵稜線上に北西方向から南東方向にかけて緩やかなS字を描いて並ぶ。 この地は通称丹波山といわれ、かつては黒石寺領の黒石町字山内と字下柳の境にあり、往古の黒石寺の領域境となっていた。 『江刺郡誌』丹波山条には「黒石村にあり、往昔丹波某氏の拠れる地にして、鶴ケ城主正端入道越前守の滅ぼすところとなる。現に十三塚あり」と書かれる。 また、十三坊長根ともよばれ、かつて48坊あった黒石寺の坊のうちの13坊を弔った跡とも伝えられている。 この塚に対する禁忌は厳しく、塚を掘ることはもちろん、踏んだり登ったりするなど粗末に扱うと病人や怪我人が出ると強く戒められていた。また、現所有者の千葉家は、代々この地に居住する旧家であり、約250年前に黒石寺より嫁を迎えた折に、お歯黒料として十三塚を含む山林が黒石寺より同家に与えられたものとの伝承がある。 この十三塚は、昭和57・58年度に神奈川大学日本常民文化研究所が実施した全国調査によって判明した、13基が揃って残る全国17か所の1つであり、13基の塚のうち4基はそれぞれ一部が削平されているものの、全体としての保存状況は良好である。この全国調査の折の実測調査によれば、塚の総延長は169.8㍍。各塚の間隔は最長で17.8㍍、最短のもので12.3㍍となっており、その間には5.5㍍もの間隔の違いが見られることが明らかとなっている。 この調査では、こうした計測結果や個々の塚の立地条件から、この十三塚が最初に北西側から数えて1番目、7番目、13番目の塚(以下、北西方向から1号塚・2号塚と順によぶ)の位置を決め、ついでその間の塚を築いていった可能性が指摘されており、この種の塚の構築方法を知る上でも貴重な事例となっている。 13基それぞれの塚の規模は、東西方向の長さは最大で7.5㍍、最小で4.5㍍を数え、南北方向の長さは同じく7.8㍍から最小4.5㍍の範囲、高さは最高で1.7㍍、最低で0.8㍍となっており、平均値は東西約5.8㍍×南北約6㍍、高さ約1.2㍍となる。 塚の形態は円形を基本として不整円形・楕円形、一部に方形のものも見られる。 13基の塚のうち、最大のものは7号塚で、その規模は7.5㍍四方、高さ1.7㍍、塚の形は方形を呈している。 このように黒石の十三塚は、それぞれの塚が平均的な大きさのなかにあるものの、中央の7号塚が最大で、その形も他の塚が円形状を呈しているのに対して方形を呈しているなど、中央の一塚が大きい十三塚築造の本来の形をうかがわせる構造となっている。 なお、いずれの塚も盛土だけで、葺石やその他の施設などは見られない。