国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
留萌のニシン漁撈(旧佐賀家漁場)用具
ふりがな
:
るもいのにしんぎょろう(きゅうさがけぎょば)ようぐ
留萌のニシン漁撈(旧佐賀家漁場)用具
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員数
:
3,745点
種別
:
生産、生業に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
内訳:網及び網関係用具1,059点 船及び船関係用具340点 沖揚げ・加工関係用具1,486点 修理関係用具307点 施設・経営関係用具553点 計3,745点
指定番号
:
00198
指定年月日
:
1995.12.26(平成7.12.26)
追加年月日
:
指定基準1
:
(二)生産、生業に用いられるもの 例えば、農具、漁猟具、工匠用具、紡織用具、作業場等
指定基準2
:
(三)地域的特色を示すもの
指定基準3
:
所在都道府県
:
北海道
所在地
:
留萌市礼受町13番地
保管施設の名称
:
旧佐賀家漁場
所有者名
:
留萌市
管理団体・管理責任者名
:
留萌のニシン漁撈(旧佐賀家漁場)用具
解説文:
詳細解説
留萌市は、北海道の日本海岸の中程に位置する。主幹産業は水産加工業で、往時はニシン漁で栄え、現在も数の子生産が全国の半分以上を占める。
北海道のニシン漁は、早くはアイヌの人々により行われ、江戸時代に入ってからは和人により産業の形を取って始められる。江戸時代初期のニシン漁は松前藩の本領内に限られたが、18世紀の半ばには場所請負制度も確立し、大規模な漁場経営が浸透した。その後、西回り航路により蝦夷地物産が全国的な流通経済の中に組み込まれると、ニシン漁場も北上し、19世紀にはニシン肥利用も展開し、留萌のニシン漁も開始された。
留萌に、村山伝兵衛が場所請負人として漁場を開設したのは、寛延3年(1750)で、伝兵衛没落後の天明7年(1787)には栖原角兵衛がこれに代わった。弘化元年(1844)には、留萌へのニシン出稼ぎも始まり、佐賀平之丞がカクダイ(因)を名乗って漁場を取り仕切った。
昭和の慢性的な不漁のなか、北海道のニシン漁は、昭和30年の留萌での317石、北海道全道での36,314石の漁獲を最後に終焉を迎えた。留萌では昭和31・32年にも細々と漁を行っており、翌33年のニシン来遊に備えて整えていた漁撈用具一式が本資料であり、当時の用具類がそのまま残った貴重な資料である。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
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留萌のニシン漁撈(旧佐賀家漁場)用具
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解説文
留萌市は、北海道の日本海岸の中程に位置する。主幹産業は水産加工業で、往時はニシン漁で栄え、現在も数の子生産が全国の半分以上を占める。 北海道のニシン漁は、早くはアイヌの人々により行われ、江戸時代に入ってからは和人により産業の形を取って始められる。江戸時代初期のニシン漁は松前藩の本領内に限られたが、18世紀の半ばには場所請負制度も確立し、大規模な漁場経営が浸透した。その後、西回り航路により蝦夷地物産が全国的な流通経済の中に組み込まれると、ニシン漁場も北上し、19世紀にはニシン肥利用も展開し、留萌のニシン漁も開始された。 留萌に、村山伝兵衛が場所請負人として漁場を開設したのは、寛延3年(1750)で、伝兵衛没落後の天明7年(1787)には栖原角兵衛がこれに代わった。弘化元年(1844)には、留萌へのニシン出稼ぎも始まり、佐賀平之丞がカクダイ(因)を名乗って漁場を取り仕切った。 昭和の慢性的な不漁のなか、北海道のニシン漁は、昭和30年の留萌での317石、北海道全道での36,314石の漁獲を最後に終焉を迎えた。留萌では昭和31・32年にも細々と漁を行っており、翌33年のニシン来遊に備えて整えていた漁撈用具一式が本資料であり、当時の用具類がそのまま残った貴重な資料である。
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詳細解説
留萌市は北海道の日本海岸の中程に位置し、面積292.76平方キロほどの市域を有する。主幹産業は水産加工業で、往時にはニシン漁で栄え、現在でもニシンの数の子の生産が全国の半分以上を占めている。 北海道におけるニシン漁は、早くはアイヌの人々によって行われていた。北海道の日本海沿岸のアイヌの人々は、ニシンをも「カムイ・チェップ(神の魚)」とよんでおり、鮭と同等に扱っている。 江戸時代に入ると、和人によるニシン漁が産業の形を取るようになり、慶長年間には松前地方のニシン漁撈の記録が見られるようになる。寛文年間の記録では西蝦夷地方からの水産物としてニシン・数の子の名前が見え、17世紀中期にはニシンの加工品が商品となっていることがわかる。 江戸時代初期のニシン漁は、松前藩の本領内に限られた。18世紀半ばには場所請負制度も確立し、和人商人による大規模な漁場経営が浸透する。また同時に、西回り航路により蝦夷地物産が全国的な流通経済の中に組み込まれた。 こうしたなかで、18世紀後半になると松前地方へのニシンの回遊が少なくなり、また、度重なる大飢饉の影響により大量の東北難民が蝦夷地に流入した。その結果、西蝦夷地におけるニシン漁場はしだいに北上した。それは、特に19世紀になるとニシン肥利用の展開とも相俟ってさらに加速し、西蝦夷地の日本海沿岸一帯にニシン漁場が拓かれていく。留萌におけるニシン漁もこうした背景のなかで開始された。 留萌は、アイヌ名でルルモッペという。この地に場所請負人が本格的に漁場を開設したのは、寛延3年(1750)の初代村山伝兵衛が最初である。その村山伝兵衛没落後は、天明7年(1787)には六代栖原角兵衛がこれに代わり、以後、代々栖原家の請負場所となった。漁場開設当初は、漁獲はニシンより鮭が主であったようで、ニシン漁が主役になるのは天保11年(1840)にハママシケ(浜益)地域以北でのニシン漁の出稼ぎが許可されてからのようである。記録に残る留萌へのニシン漁出稼ぎの最初は、礼受地区に佐賀平之丞が入った弘化元年(1844)のことである。平之丞は松前に人別がないため、松前の田中藤左衛門の名義を借りてカクダイ(因)を名乗り、以後、佐賀家漁場として現在に至っている。 ニシン漁は古くは刺網によっていた。その後19世紀前半には巻網の一種である笊網【ざるあみ】という大網が普及する。しかし、これは漁獲の際に騒音を立てることから、音に敏感なニシンの来遊を妨げるという欠点をもっていた。嘉永3年(1850)歌棄地区で佐藤三右衛門が行成網【ゆきなりあみ】を始めると、その効率のよさから西蝦夷地では急速にこの行成網が普及した。行成網は建網の一種で、笊網の欠点を補うものであった。この時期には漁獲したニシンをそのまま海中に一時保存しておくための枠網や袋網・詰袋も発明され、漁法の一層の進展をみた。次いで、明治10年代になると行成網が改良されて角網へと代わる。角網はニシンを捕獲するミアミの部分を垣網に対して直角に付け変えたもので、漁獲したニシンが逃げにくく、また漁獲時に船が波に直角に向き、安全に操業できるようにしたもので、その後はこの角網が急速に普及する。こうした網の材質は、はじめは麻製であったが、明治35年頃から綿糸が使用され始め、大正初期にはほとんどが綿糸となった。 留萌地方でニシン角網一カ統に必要とされる平均的な人数は、船頭を含めた漁夫30人、炊事2人、帳場・陸廻りほか3人の計35人と、そのほか臨時人夫20人程度とされ、彼らは漁獲から身欠きニシンの製造やニシン絞め粕製造まで行ったという。佐賀家の昭和16年の記録では、大船頭1人、起船頭1人、沖船頭1人、枠係1人、磯船乗3人、舳係1人、胴の間係17人、岡廻兼監備1一人、飯炊2人、帳場3人の計31人であった。 昭和の慢性的な不漁のなか、北海道におけるニシン漁は、昭和24年からは一時期持ち直したが、昭和30年の留萌での317石、北海道全道での36,314石の漁獲を最後に、北海道沿岸のニシン漁は終焉を迎えた。しかし留萌では、その後も昭和31・32年に若干の漁獲をみている。佐賀家でも32年にニシン漁を行っており、それを基に翌33年用のニシン魚群の来遊に備えて整えていた漁撈用具一式が本資料であり、当時の用具類がそのまま残った貴重な資料である。