国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
上州藤原(旧雲越家)の生活用具及び民家
ふりがな
:
じょうしゅうふじわら(きゅうくもこしけ)のせいかつようぐおよびみんか
上州藤原(旧雲越家)の生活用具及び民家
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員数
:
2,589点、1棟、附208点
種別
:
衣食住に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
内訳:生産関係用具506点 生活関係用具1893点 信仰儀礼関係用具190点 民家1棟 附208点
指定番号
:
00204
指定年月日
:
1997.12.15(平成9.12.15)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)衣食住に用いられるもの 例えば、衣服、装身具、飲食用具、光熱用具、家具調度、住居等
指定基準2
:
(二)生産、生業に用いられるもの 例えば、農具、漁猟具、工匠用具、紡織用具、作業場等
指定基準3
:
所在都道府県
:
群馬県
所在地
:
利根郡みなかみ町藤原3688
保管施設の名称
:
雲越家住宅資料館(雲越家住宅)
所有者名
:
みなかみ町
管理団体・管理責任者名
:
上州藤原(旧雲越家)の生活用具及び民家
解説文:
詳細解説
みなかみ町藤原は、群馬県東北端に位置する地域で、ほぼ中央を南北に利根川が流れる。地域を取り巻く周囲の山々は、標高1500~2000㍍級の高山が続き、谷あいに20の集落がある。
生業は、周囲の山を利用する生活で、狩猟のほか、山稼ぎや炭焼きなどが盛んに行われてきた。また、生業の中心は農業で、山間地の水利の便を反映した小規模水田で第二次大戦後まで米が自給自足でき、カンノと呼ばれる焼畑農耕も行われた。
雲越家は、利根川支流の名倉川に沿った山口地区に居を構えた中層の農家である。最後の当主である仙太郎が生活を営んでいた当時の用具がそのまま保存されており、代々営まれてきた稲作や畑作のほかに、副業として養蚕、ワラビ粉やクズ粉の生産、炭焼き、木挽き、杣、付け木の製作などに関する用具類、自家用の生活物資を得るために麻・からむしなどの野生植物の採取したり加工したりする用具類などが網羅的に残されている。藤原では百姓のなり下がりは何でもできるといわれたが、雲越家の資料にはこうした藤原の農家の実態が具現されている。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
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上州藤原(旧雲越家)の生活用具及び民家
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解説文
みなかみ町藤原は、群馬県東北端に位置する地域で、ほぼ中央を南北に利根川が流れる。地域を取り巻く周囲の山々は、標高1500~2000㍍級の高山が続き、谷あいに20の集落がある。 生業は、周囲の山を利用する生活で、狩猟のほか、山稼ぎや炭焼きなどが盛んに行われてきた。また、生業の中心は農業で、山間地の水利の便を反映した小規模水田で第二次大戦後まで米が自給自足でき、カンノと呼ばれる焼畑農耕も行われた。 雲越家は、利根川支流の名倉川に沿った山口地区に居を構えた中層の農家である。最後の当主である仙太郎が生活を営んでいた当時の用具がそのまま保存されており、代々営まれてきた稲作や畑作のほかに、副業として養蚕、ワラビ粉やクズ粉の生産、炭焼き、木挽き、杣、付け木の製作などに関する用具類、自家用の生活物資を得るために麻・からむしなどの野生植物の採取したり加工したりする用具類などが網羅的に残されている。藤原では百姓のなり下がりは何でもできるといわれたが、雲越家の資料にはこうした藤原の農家の実態が具現されている。
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詳細解説
みなかみ町藤原は、群馬県の東北端に位置する地域で、ほぼ中央を南北に利根川が流れている。面積は、旧水上町の総面積の約74%強を占めるが、その大部分は急峻な山岳地帯となっており、地域を取り巻く周囲の山々は標高1,500~2,000㍍級の高山が続く。藤原は、谷あいの20の集落からなり、明治12年に水上村に編入され、昭和22年に水上町となった。明治20年の記録では戸数159戸、人口646人であったが、昭和20年代後半から大規模な電源開発が始まり、昭和30年に須田貝ダム、昭和32年に藤原ダム、昭和40年に矢木沢ダムが完成し、藤原ダムによって利根川本流沿いの4集落169戸が水没したが、同時に観光開発も進み、昭和37年には戸数330戸、人口1.623人に増えた。しかし、その後過疎化の流れが進み、平成8年現在で戸数317戸、人口735人となっている。 生業は、周囲の山々を複合的に利用するものが多く、例えば狩猟でも専業集団はみられず、いずれの山稼ぎも副業の域を出なかった。また第二次大戦後までは炭焼きも盛んであった。 藤原では第二次大戦後まで米が自給自足できた。生業の中心は農業で、山間地の水利の便を反映した小規模な水田とカンノと呼ばれる焼畑農耕が行われた。耕地は39.89㌶ほどで、水田面積が畑地の倍を数える。近年基盤整備が進んだものの、標高900㍍の典型的な積雪寒冷単作地帯であり、無霜日数も150日と短期間で、日照時間の不足や夏季低温の影響等を受けやすいため収量も少なく、畑作物の種類も限られるなど、農業経営は不利な条件下にある。 例年11月には初雪が降り、12月から翌年3月までは根雪となる。終雪は5月上旬までみられ、降雪量は毎年2㍍以上になる。 雲越家は、利根川支流の名倉川に沿った山口地区に居を構えた中層の農家である。雲越家の菩提寺である応永寺の過去帳や位牌からみると、享保12年(1727)に没した吉弥を初代に、最後の当主である雲越仙太郎は9代にあたる。仙太郎は、明治34年12月25日に億松・ぬい夫妻の長男として生まれた。10歳で父を亡くし、以来、母を助けて一家6人の生計の中心となって活躍し、昭和55年4月17日にこの家で84歳の生涯を閉じた。昭和55年、仙太郎の遺産の一部が甥の林義明氏の相続するところとなり、以来、林氏によって雲越家の住居と生活用具類は、一括して保存・管理されてきた。 林義明氏は明治45年に藤原の平出地区に生まれ、幼少時から雲越家に通いその生活ぶりを熟知し、自らも伝統的な藤原の生活を体現している人である。林氏は仙太郎の死去直後から生活用具の整理を行い、仙太郎が生活を営んでいた当時の用具の収納状況等を克明に記録している。これによって住居と生活用具との一体的な把握が可能となり、仙太郎晩年の生活空間が再現されて、昭和61年3月7日付で群馬県指定有形民俗文化財の指定を受けた。資料はその後、土地建物を含めて昭和63年8月に旧水上町に寄贈され、町では平成3年3月より資料整理委員会を組織してこの資料の整理と記録作成事業に着手した。本資料はそれらの結果としてとりまとめられたものである。 昭和55年当時の雲越家の家産は、木造茅葺一部2階建の母屋256.52㎡、宅地390.23㎡、水田4.9㌃、畑地14.8㌃、山林19.8㌃、原野4.9㌃ほどであった。仙太郎は生涯独身であったが、人一倍物を大事にし、自給自足を旨とした生活を営んできた。雲越家では代々稲作や畑作のほかに、副業として養蚕、ワラビ粉やクズ粉の生産、炭焼き、木挽き、杣、付け木の製作などを行い、自家用の生活物資を得るために麻・からむしなどの野生植物の採取やこれらを加工した紡織やネコ・茣蓙・莚などの製作、蓑・下駄の製作、各種の藁細工、川魚漁などを営んできており、これらの用具や製品が残っている。 また、生産活動や日常生活に使用する用具の修理を自分で行うための、鍛冶用具や石臼の目立ての用具なども残る。 藤原では百姓のなり下がりは何でもできるといわれたが、雲越家の資料にはこうした藤原の農家の実態が具現されている。 この資料は、一軒の農家の明治期から昭和にかけての生活に関する用具がまとまって残されている貴重なものであり、その生活の様相をよく示しているとともに、藤原という山間地域の生活体系とその変遷も知ることのできる重要なものである。