国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
渡辺学園裁縫雛形コレクション 附 教具類他
ふりがな
:
わたなべがくえんさいほうひながたこれくしょん つけたり きょうぐるいほか
渡辺学園裁縫雛形コレクション
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員数
:
2,290点 附 61点
種別
:
民俗知識に関して用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00209
指定年月日
:
2000.12.27(平成12.12.27)
追加年月日
:
指定基準1
:
(七)民俗知識に関して用いられるもの 例えば、暦類、卜(ぼく)占用具、医療具、教育施設等
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県
:
東京都
所在地
:
板橋区加賀1-18-1(百周年記念館4・5階)
保管施設の名称
:
東京家政大学博物館
所有者名
:
東京家政大学
管理団体・管理責任者名
:
渡辺学園裁縫雛形コレクション
解説文:
詳細解説
この資料は、東京家政大学の前身にあたる東京裁縫女学校と東京女子専門学校の教育課程のなかで製作された、衣服や生活用具類の雛形のコレクションである。
東京家政大学は、渡辺辰五郎(1844~1907年)が明治14年(1881)に東京湯島に開設した和洋裁縫伝習所(渡辺学園)に始まる。辰五郎は、東京日本橋で仕立技術を習得後、千葉県で仕立屋を営む傍ら、裁縫塾を開設していたが、その後本格的に裁縫を教えることとなり、雛形尺【ひながたざし】・袖形【そでがた】・褄形【つまがた】を考案した。雛形尺を用い、裁ち方を教えてから雛形を作り、部分縫い・実物に進むという教授法は、布地を節約でき、多数者の一斉教育を可能にした。こうして渡辺学園の裁縫教育は、明治・大正期のわが国の女子教育の展開に大きく寄与した。
本資料は、渡辺学園の卒業生から寄贈された約3000点の資料を精査し、和装、洋装、有職類、生活用品の4項目に分類し、雛形尺・教科書などの教具類などを附としてまとめたものである。渡辺学園の裁縫教育の展開を知る上で欠かすことのできない資料である。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
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渡辺学園裁縫雛形コレクション
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渡辺学園裁縫雛形コレクション
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解説文
この資料は、東京家政大学の前身にあたる東京裁縫女学校と東京女子専門学校の教育課程のなかで製作された、衣服や生活用具類の雛形のコレクションである。 東京家政大学は、渡辺辰五郎(1844~1907年)が明治14年(1881)に東京湯島に開設した和洋裁縫伝習所(渡辺学園)に始まる。辰五郎は、東京日本橋で仕立技術を習得後、千葉県で仕立屋を営む傍ら、裁縫塾を開設していたが、その後本格的に裁縫を教えることとなり、雛形尺【ひながたざし】・袖形【そでがた】・褄形【つまがた】を考案した。雛形尺を用い、裁ち方を教えてから雛形を作り、部分縫い・実物に進むという教授法は、布地を節約でき、多数者の一斉教育を可能にした。こうして渡辺学園の裁縫教育は、明治・大正期のわが国の女子教育の展開に大きく寄与した。 本資料は、渡辺学園の卒業生から寄贈された約3000点の資料を精査し、和装、洋装、有職類、生活用品の4項目に分類し、雛形尺・教科書などの教具類などを附としてまとめたものである。渡辺学園の裁縫教育の展開を知る上で欠かすことのできない資料である。
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詳細解説
この資料は、東京家政大学の前身にあたる東京裁縫女学校と東京女子専門学校の教育課程のなかで製作された、衣服や生活用具類の雛形のコレクションである。 東京家政大学は、渡辺辰五郎(1844~1907年)が明治14年(1881)に東京湯島に開設した和洋裁縫伝習所に始まり、明治25年(1892)に東京裁縫女学校、大正11年(1922)に東京女子専門学校となり、昭和24年(1949)に現在の校名となったものである。 渡辺辰五郎は、東京日本橋の仕立屋で技術を習得した後、郷里の千葉県長南町で仕立屋を営む傍ら、裁縫塾を開設していたが、明治7年(1874)長南小学校で裁縫を教えたことを契機に学校教育のなかで裁縫を教えることとなった。 辰五郎は、この年、雛形尺【ひながたざし】・袖形【そでがた】・褄形【つまがた】を考案する。雛形尺は、鯨尺約3寸5分(約13.2㎝)となる半紙(美濃紙)半幅を通常の反物の幅と見なしてこれを雛形尺1尺とし、半紙1枚で一ツ身、3枚で三ツ身の着物ができるように工夫したものである。この雛形尺を用い、半紙を使って積り方や裁ち方を教えてから雛形を作り、部分縫い・実物に進むという辰五郎の教授法は、従来の教育に比べて布地を大幅に節約でき、また、多数者の一斉教育を可能にするなどの効果をもたらした。こうした辰五郎の裁縫教育法は各方面の注目するところとなり、辰五郎は千葉女子師範学校、東京女子師範学校の裁縫教師を務める傍ら、明治14年に和洋裁縫伝習所を開設し、本格的な裁縫教育に進むこととなるのである。 母親や経験者から伝習された裁縫技術の伝統的な習得形態は、熟練者の主宰する裁縫所などを経て、明治期になると近代の教育制度のなかに位置付けられることとなった。良妻賢母型女性の育成を目的とする当時の教育のなかで、裁縫教育は単に技術の伝習だけにとどまらず、女子教育の中核的な役割を担うこととなる。裁縫教師の育成は、学校教育のみならず各地の裁縫所に至るまで、広く社会の要請するところとなったが、当時の教員養成の手段は師範学校などの限られた範囲にとどまっていた。 こうしたなかで、東京裁縫女学校では明治35年(1902)に第1回教員養成会を開催し、同41年(1908)には高等師範科を設けて裁縫科教師の養成を行った。この高等師範科は大正11年(1922)まで続き、その後東京女子専門学校に引き継がれるが、大正時代の高等師範科3か年の教授細目によると、雛形、部分縫、実物を合わせ200点余を製作することとなっており、その充実ぶりがうかがわれる。 こうした活動の結果、明治44年(1911)以降の高等師範科の卒業生に、私立学校として初めての中等学校裁縫科教員無試験認定の特権が与えられた。このように渡辺学園における裁縫教育は、裁縫教師育成をも目的としたところに一つの特色を有しており、明治・大正期のわが国の女子教育の展開に、同校の卒業生が裁縫教育を通して大きく寄与することとなった。 本資料は、こうした渡辺学園の裁縫教育の展開を知る上で欠かすことのできない資料である。 なお、雛形尺は私製のものではあったが、学校教育での使用に限ることとした上で一種の縮尺と認められて、昭和初期まで教授用縮尺として使用された。しかし、雛形尺を用いて雛形を製作させる教育は、東京女子専門学校では昭和2年の教授細目に見えるのが最後で、その後は見あたらなくなる。昭和期の教授細目では卒業までの製作点数は大部分が実物となり、雛形は縮尺2分の1、4分の1の半身縫い、部分縫い各2点ずつの製作と非常に少なくなるのである。 本資料は、東京裁縫女学校・東京女子専門学校を中心とする渡辺学園の卒業生から寄贈された約3000点の資料の中から精査されたもので、明治30年(1897)から昭和15年(1940)までに製作された資料からなる。ここでは、資料を和装、洋装、有職類、生活用品の4項目に分類し、併せて雛形尺・教科書などの教具類と雛形などの製作用具を附としてまとめている。なお、資料の名称については教授細目に記された呼称が用いられている。 和装は伝統的な被り物や着物の類で、形態は基本的にはほとんど変化がみられず、明治・大正・昭和とほぼ同様のものがみられるが、名称について時代的な相違がみられる。和装はさらに被り物、上衣、下衣、外衣、下着、手甲・脚絆、その他に分類され、さらにそれぞれを生活用、職業用、儀礼用に細分している。洋装はシャツやズボンの類を中心とする。日本における洋装化は大人の男性からで、当初は和服の長着の下にシャツとズボン下を重ねて着装する習慣もあり、それが雛形の内容にも反映している。