国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
下谷坂本の富士塚
ふりがな
:
したやさかもとのふじづか
下谷坂本の富士塚
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員数
:
1基
種別
:
信仰に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00135
指定年月日
:
1979.05.21(昭和54.05.21)
追加年月日
:
指定基準1
:
(六)信仰に用いられるもの 例えば、祭祀(し)具、法会具、奉納物、偶像類、呪(じゆ)術用具、社祠(し)等
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県
:
東京都
所在地
:
台東区下谷2丁目13番14号
保管施設の名称
:
所有者名
:
小野照崎神社
管理団体・管理責任者名
:
下谷坂本の富士塚
解説文:
詳細解説
富士山はわが国の霊山のうち、古来、信仰の対象とされた最も著名な山の一つである。富士塚は、富士山を模して築造された塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心安く富士に登山できるようにと、安永9年(1780)高田水稲荷の境内にこれを築いたのが始まりである。庶民の富士山信仰は江戸中期には盛んになり、江戸を中心に富士講が所々に結成され、やがて多くの富士塚が築造されて、現都区内だけでも50数か所の富士塚を数えるに至った。
下谷坂本の富士塚は、富士講の一派入谷東(山東)講によって文政11年(1828)、小野照崎神社の境内に築造されたもので、高さ約5㍍、直径約16㍍、塚全体を富士の熔岩でおおっている。塚の上の登山道に合目石を建て、一合目の岩屋に役行者像、五合目付近に富士講の祖と崇められる藤原角行(1646年没)の像をまつる石祠を置く。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
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下谷坂本の富士塚
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解説文
富士山はわが国の霊山のうち、古来、信仰の対象とされた最も著名な山の一つである。富士塚は、富士山を模して築造された塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心安く富士に登山できるようにと、安永9年(1780)高田水稲荷の境内にこれを築いたのが始まりである。庶民の富士山信仰は江戸中期には盛んになり、江戸を中心に富士講が所々に結成され、やがて多くの富士塚が築造されて、現都区内だけでも50数か所の富士塚を数えるに至った。 下谷坂本の富士塚は、富士講の一派入谷東(山東)講によって文政11年(1828)、小野照崎神社の境内に築造されたもので、高さ約5㍍、直径約16㍍、塚全体を富士の熔岩でおおっている。塚の上の登山道に合目石を建て、一合目の岩屋に役行者像、五合目付近に富士講の祖と崇められる藤原角行(1646年没)の像をまつる石祠を置く。
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詳細解説
富士山はわが国の霊山のうち、古来、信仰の対象とされた最も著名な山の一つで、修験道の行者の登拝の歴史も古代にさかのぼる。富士塚は、富士山を模して築造された塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心安く富士に登山できるようにと、安永9年(1780)高田水稲荷の境内にこれを築いたのが始まりである。 庶民の富士山信仰は江戸中期にはかなり盛んになり、この頃から、江戸を中心に富士講が所々に結成され、やがて多くの富士塚が築造されて、現都区内だけでも五十数か所の富士塚を数えるに至った。しかし、近時の社会の変貌にともない、その大半が消滅・損壊され、原形をよく保つ富士塚は少なくなった。 富士山の場合と同様に、かつては旧6月1日、今日では7月1日が富士塚のお山開きで前夜から祭りが行われ当日は富士講徒による七富士参りが行われたが、現在は講も少なくなり、行事も衰退してきている。 下谷坂本の富士塚は、富士講の一派入谷東(山東)講によって文政11年(1828)、小野照崎神社の境内に築造されたもので、高さ約5㍍、直径約16㍍、塚全体を富士の熔岩でおおっている。東北側を一部欠損してはいるが、登山道が設けられた正面側などは完存し、万延元年(1860)再建の石門、天保7年(1836)造立の神猿、文政11年(1828)坂本2丁目若者奉納の石燈籠などを備え、塚の上の登山道に合目石を建て、一合目の岩屋に役行者像、五合目付近に富士講の祖と崇められる藤原角行(1646年没)の像をまつる石祠を置いている。 都区内の富士塚の中で原形をよく保つものは少ないがその中でも、この塚は最も古く、庶民信仰の様相を示すものとして重要である。