国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
豊島長崎の富士塚
ふりがな
:
としまながさきのふじづか
豊島長崎の富士塚
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員数
:
1基
種別
:
信仰に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00136
指定年月日
:
1979.05.21(昭和54.05.21)
追加年月日
:
指定基準1
:
(六)信仰に用いられるもの 例えば、祭祀(し)具、法会具、奉納物、偶像類、呪(じゆ)術用具、社祠(し)等
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県
:
東京都
所在地
:
豊島区高松2丁目9番3号
保管施設の名称
:
所有者名
:
浅間神社
管理団体・管理責任者名
:
豊島長崎の富士塚
解説文:
詳細解説
富士山はわが国の霊山のうち、古来、信仰の対象とされた最も著名な山の一つである。富士塚は、富士山を模して築造された塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心安く富士に登山できるようにと、安永9年(1780)高田水稲荷の境内にこれを築いたのが始まりである。
庶民の富士山信仰は江戸中期には盛んになり、この頃から、江戸を中心に富士講が所々に結成され、多くの富士塚が築造され、現都区内だけでも50数か所の富士塚を数えるに至った。
長崎の富士塚は、富士講の一派月三講(椎名町元講)によって、文久2年(1862)に築造された。高さ約8㍍、直径約21㍍で、塚全体が富士の熔岩でおおわれている。頂上の石祠をはじめ、太郎坊大権現碑・亀岩八大龍王神碑・月三講の講碑・同行碑・登山道の合目石・手水鉢など築造当時の碑等も多く残存し、他の講碑や明治期以後の講碑も見られる。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
豊島長崎の富士塚
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解説文
富士山はわが国の霊山のうち、古来、信仰の対象とされた最も著名な山の一つである。富士塚は、富士山を模して築造された塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心安く富士に登山できるようにと、安永9年(1780)高田水稲荷の境内にこれを築いたのが始まりである。 庶民の富士山信仰は江戸中期には盛んになり、この頃から、江戸を中心に富士講が所々に結成され、多くの富士塚が築造され、現都区内だけでも50数か所の富士塚を数えるに至った。 長崎の富士塚は、富士講の一派月三講(椎名町元講)によって、文久2年(1862)に築造された。高さ約8㍍、直径約21㍍で、塚全体が富士の熔岩でおおわれている。頂上の石祠をはじめ、太郎坊大権現碑・亀岩八大龍王神碑・月三講の講碑・同行碑・登山道の合目石・手水鉢など築造当時の碑等も多く残存し、他の講碑や明治期以後の講碑も見られる。
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詳細解説
富士山はわが国の霊山のうち、古来、信仰の対象とされた最も著名な山の一つで、修験道の行者の登拝の歴史も古代にさかのぼる。富士塚は、富士山を模して築造された塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心安く富士に登山できるようにと、安永9年(1780)高田水稲荷の境内にこれを築いたのが始まりである。 庶民の富士山信仰は江戸中期にはかなり盛んになり、この頃から、江戸を中心に富士講が所々に結成され、やがて多くの富士塚が築造されて、現都区内だけでも五十数か所の富士塚を数えるに至った。しかし、近時の社会の変貌にともない、その大半が消滅・損壊され、原形をよく保つ富士塚は少なくなった。 これらの富士塚では、富士山の場合と同様に、かつては旧6月1日、今日では7月1日が富士塚のお山開きで前夜から祭りが行われ当日は富士講徒による七富士参りが行われたが、現在は講も少なくなり、行事も衰退しているところが多い。 長崎の富士塚は、富士講の一派月三講(椎名町元講)によって、文久2年(1862)に築造されたもので、高さ約8㍍、直径約21㍍で、塚全体が富士の熔岩でおおわれている。周囲は、現在、住宅密集地帯となっているが、形状はよく保存されている。 頂上の石祠をはじめ、太郎坊大権現碑・亀岩八大龍王神碑・月三講の講碑・同行碑・登山道の合目石・手水鉢など文久2年築造当時に造立されたものも多く残存し、文久3年の永田講の講碑など他の講碑も建てられ、明治期以後の講碑も多く見られる。 この富士塚は、都区内にある江戸時代築造の富士塚の中では、原形を最もよく保ち庶民信仰の様相を示すものとして重要である。