国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
能登の揚浜式製塩の技術
ふりがな
:
のとのあげはましきせいえんのぎじゅつ
能登の揚浜製塩の技術
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種別1
:
民俗技術
種別2
:
生産・生業
その他参考となるべき事項
:
※揚浜式製塩の用具類は、昭和44年4月12日に「能登の揚浜製塩用具」166点として重要有形民俗文化財に指定されている。
指定証書番号
:
指定年月日
:
2008.03.13(平成20.03.13)
追加年月日
:
指定基準1
:
(二)技術の変遷の過程を示すもの
指定基準2
:
(三)地域的特色を示すもの
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
石川県
所在地
:
珠洲市清水町
保護団体名
:
能登の揚浜式製塩保存会
能登の揚浜製塩の技術
解説文:
詳細解説
能登の揚浜式製塩の技術は、海面より高い場所に造成した塩田に海水を汲み上げて塩を作る揚浜式の製塩技術である。粘土を用いて人工の地盤を築いた塗浜と呼ばれる塩田で行われ、塩田に海水を撒いた後、塩分の付着した砂を集めて塩分濃度の濃い鹹水を採る塩浜作業と、鹹水を釜で煮詰めて塩を結晶化させる釜屋作業からなる。
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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能登の揚浜製塩の技術
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能登の揚浜式製塩の技術
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解説文
能登の揚浜式製塩の技術は、海面より高い場所に造成した塩田に海水を汲み上げて塩を作る揚浜式の製塩技術である。粘土を用いて人工の地盤を築いた塗浜と呼ばれる塩田で行われ、塩田に海水を撒いた後、塩分の付着した砂を集めて塩分濃度の濃い鹹水を採る塩浜作業と、鹹水を釜で煮詰めて塩を結晶化させる釜屋作業からなる。
詳細解説▶
詳細解説
能登の揚浜式製塩の技術は、石川県の能登半島に伝承されてきた伝統的な塩づくりの技術である。 揚浜式の製塩は、海面より高い場所に造成した塩田に海水を汲み上げて塩を作る製塩法で、塩田に海水を撒いた後、塩分が付着した砂を集めて塩分濃度の濃い鹹水を採り、最後にそれを鉄釜で焚き詰め、塩を結晶化させる工程をとる。 揚浜式は、塩の干満差を利用して塩田に海水を取り込む入浜式とともに、日本の伝統的な製塩技術であり、原料となる海水を人力で塩田まで運び上げる点が入浜式との大きな違いである。入浜式が干満差の大きい内海や干潟が発達した地域にみられたのに対し、揚浜式は潮の干満差が小さい日本海側や波の荒い太平洋側の地域にみられたが、能登半島では、砂浜が少なく岩石の多い海岸線が形成されていたため、粘土を用いて人工の地盤を築く塗浜と呼ばれる揚浜式の塩田が発達した。 石川県の北東部、能登半島の先端部に位置する珠洲市では、現在も揚浜式による塩づくりが行われている。能登における製塩は、加賀藩が寛永4年(1627)に、塩の生産者に米と生産費を貸与し、その代物として塩を返納させる塩手米制度を設け、藩の産業として塩づくりを奨励したため、近世には独自の発展を遂げた。なかでも珠洲郡は、塩の生産量の大部分を占め、能登半島においても代表的な塩田地帯であった。 その後、近代になると、製塩資金を創設し、生産者自身が運営する貸付制度を設けて安定した塩の生産を続けてきたものの、明治38年(1905)に明治政府によって専売制が実施されると、生産条件の悪い塩田の整理が全国的に進められ、能登の製塩も衰退を余儀なくされた。 そして、昭和34年に始まる第三次塩業整備によって能登の塩田の多くは廃止に追い込まれた。 しかし、こうした塩業整備の動きに対し、能登では伝統的な製塩技術を消滅させまいと、日本専売公社から許可を得て、珠洲市清水町・長橋町、輪島市町野町の3か所に塩田を残し、揚浜式による製塩を存続させた。その後、2ヶ所は伝承が途絶えたが、珠洲市清水町だけは伝承を維持し、平成3年には当地で永年製塩業に従事してきた角花家を中心に製塩技術の保存継承を目的とした保存会も結成され、伝統的な揚浜式製塩の技術を今日に伝えている。 製塩に従事する者は、ハマジ(浜士・浜師)と呼ばれ、製塩の作業は家族労働を基本とする。製塩の工程は、塩浜作業と呼ばれる塩田での作業と釜屋作業と呼ばれる塩田脇に設けられた釜屋内での作業からなる。 塩浜作業は、4月の塩田整備に始まる。塩田は、仁江海岸に面して位置し、100坪ほどの面積を有している。塩田の砂層の下には床面として20㎝ほど粘土が敷き詰められており、粘土を補充して床面を平らに突き固め、またひび割れた部分を補修する。この粘土層の上に2㎝ほどの厚さに砂を敷き詰める。砂は2年ごとに入れ替える。 こうして塩田の準備が整うと、天候の良い日を選んで製塩作業が行われる。塩づくりは、日照量の多い夏が最盛期で、梅雨の期間を除き、7、8月を中心に10月頃まで行われる。 塩浜作業は、早朝から炎天下となる日中の時間帯に集中して行われる。まず、潮汲みといって、海岸に出て二斗入りのカエオケ(荷桶)2つで海水を汲み、天秤棒で塩田まで運ぶ。運んだ海水は、海水を溜めるシコケ(浜桶)と呼ばれる桶に移す。 次に、コマザラエ(駒渫)で塩田をならし、砂に筋目を入れる。これは、塩田表面の日の当たる面積を広くし、また、風通しをよくするために行う。そして、オチョケ(打桶)と呼ばれる円錐状の桶を使って、海水を弧を描くように塩田内に霧状に撒く。この作業は潮撒きといい、海水が塩田に均一に行き渡るように撒かなければならない。これらの作業は「潮汲み三年、潮撒き十年」といわれるほど熟練を要する。 潮撒き後は、天日で十分に乾燥させる。塩分を含んだ砂は、海水が蒸発すると白く粉が吹いたように塩の結晶が付くが、これを鹹砂と呼ぶ。午後になると、鹹砂をエブリ(柄振)で沼井に集める。沼井は、塩田の中央に設けられた井戸型の装置で、四方に板を立てて組み立てる。これを垂槽作りという。この中に集めた砂を入れ、さらに上から海水をかけ、塩の結晶を溶かしながら砂と分離させて下部の口から流し出す。こうして塩分濃度の高い鹹水が作られる。これを実潮といい、桶で釜屋に運ぶ。塩分が抽出された砂は骸砂と呼ばれ、再び塩田に戻される。 こうした一連の塩浜作業は、炎天下の重労働を伴うものであり、また、常に天候や風雨、日照量を予想して行うことが要求される。 塩浜作業が終わると、夕方から釜屋作業となる。まず、実潮を直径約1.8㍍の鉄釜で3、4時間ほど荒焚きする。荒焚きによって、鹹水の塩分が濃くなるとともに、鹹水に含まれる硫酸ナトリウムなどの不純物が釜の底に沈殿する。そこで、荒焚した後、結晶化し始めた実潮を冷ましてから鹹水溜に移し、釜底に付着した不純物を篦で掻き落とす。この作業の後、鹹水をコシオケ(濾桶)と呼ばれる濾過槽に通してゴミや不純物を取り除いてから釜に戻し、本焚きに入る。 本焚は、塩の品質を左右する重要な工程であり、夜を徹して行われる。作業は約8時間をかけて行われ、火加減を調整しながら、また、アクを丹念に取り除きながら煮詰めていく。鹹水が煮詰まるにつれて、塩は底の方から結晶化し始め、明け方になると、液面には塩の結晶がいくつもの球状をなして出来はじめる。そして、次第に水分が蒸発し、塩とニガリに分離する。 塩は、釜屋内のイダシバ(居出場)と呼ばれる置き場に釜から移され、数日間そこで余分なニガリを切って完成となる。 周囲を海に囲まれた我が国では、海水から塩を取り出す技術が発達し、日本各地の海岸線ではその地域の自然条件に応じた方法で塩づくりが行われてきた。しかし、伝統的な製塩技術は、近代以降、技術改良が進められる中でその多くが姿を消し、揚浜式の製塩についても、生産効率のよい瀬戸内海沿岸地域の入浜式や化学的な製法に押されて次第に衰退し、本件が伝統的な揚浜式製塩の技術を伝える稀少な伝承例となっている。 この技術は、現在も伝統的な用具により、伝統的な製法を維持して行われており、我が国の製塩技術の変遷を理解するうえで重要である。また、塗浜と呼ばれる塩田での製塩は地域的特色が顕著であり、技術の継承を目的とした保存会もあって伝承状況も良好である。