国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
玉敷神社神楽
ふりがな
:
たましきじんじゃかぐら
イザナギ・イザナミの連舞
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種別1
:
民俗芸能
種別2
:
神楽
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年2月1日、5月5日、7月15日、12月1日(指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
指定証書番号
:
指定年月日
:
2008.03.13(平成20.03.13)
追加年月日
:
指定基準1
:
(二)芸能の変遷の過程を示すもの
指定基準2
:
(三)地域的特色を示すもの
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
埼玉県
所在地
:
保護団体名
:
玉敷神社神楽保存会
イザナギ・イザナミの連舞
解説文:
詳細解説
玉敷神社神楽は、舞台の隅の四方を意識した四方固【しほうがた】めと呼ばれる所作を繰り返し行うことを基本とし、仮面を用い、笛、太鼓の伴奏のもと、歌、科白【せりふ】を伴わずに演じる神楽である。関東地方に広く見られる演劇的要素が強い神楽に対し、本件は様式的な所作の繰り返しで進行する点に特色がある。
本件は、玉敷神社の初春祭(2月1日)、春季大祭(5月5日)、夏季大祭(7月15日)、例大祭(12月1日)に、神社境内の神楽殿で奉納される。演目は番外2座をあわせて18座が伝承されている。演じ手には舞人と囃子方があり、囃子方は鋲留【びょうど】め太鼓、カッコと呼ばれる締【しめ】太鼓、笛の各一人で構成される。舞い人の数は、座により異なるが、多くは一人舞であり、他に二人舞、三人舞、五人舞、また全員が舞い巡る演目もある。いずれも歌や科白を伴うことなく、仮面を用いて演ずるものである。
伝承されている演目のほとんどは、四方を意識した四方固めを繰り返し行う。四方固めは舞台の中央を起点とし、舞台の対角線上をそれぞれの隅に向かって舞い進むものである。演目により舞い進む順路や所作等に若干の違いはあるが、基本的所作は共通しており、様式的な所作の繰り返しで進行する。関東地方の神楽の展開を知る上で貴重な伝承であり、芸能の変遷過程や地域的特色を示し重要である。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
写真一覧
イザナギ・イザナミの連舞
写真一覧
イザナギ・イザナミの連舞
解説文
玉敷神社神楽は、舞台の隅の四方を意識した四方固【しほうがた】めと呼ばれる所作を繰り返し行うことを基本とし、仮面を用い、笛、太鼓の伴奏のもと、歌、科白【せりふ】を伴わずに演じる神楽である。関東地方に広く見られる演劇的要素が強い神楽に対し、本件は様式的な所作の繰り返しで進行する点に特色がある。 本件は、玉敷神社の初春祭(2月1日)、春季大祭(5月5日)、夏季大祭(7月15日)、例大祭(12月1日)に、神社境内の神楽殿で奉納される。演目は番外2座をあわせて18座が伝承されている。演じ手には舞人と囃子方があり、囃子方は鋲留【びょうど】め太鼓、カッコと呼ばれる締【しめ】太鼓、笛の各一人で構成される。舞い人の数は、座により異なるが、多くは一人舞であり、他に二人舞、三人舞、五人舞、また全員が舞い巡る演目もある。いずれも歌や科白を伴うことなく、仮面を用いて演ずるものである。 伝承されている演目のほとんどは、四方を意識した四方固めを繰り返し行う。四方固めは舞台の中央を起点とし、舞台の対角線上をそれぞれの隅に向かって舞い進むものである。演目により舞い進む順路や所作等に若干の違いはあるが、基本的所作は共通しており、様式的な所作の繰り返しで進行する。関東地方の神楽の展開を知る上で貴重な伝承であり、芸能の変遷過程や地域的特色を示し重要である。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
玉敷神社神楽は、歌や科白を伴わず、仮面を用い、四方を意識した四方固めと呼ばれる繰り返しの所作を基本とする民俗芸能である。玉敷神社の年4回の祭礼において、神社境内の神楽殿で行われている。 騎西町は埼玉県の北東部にあたり、荒川と利根川の氾濫により形成された沖積地のほぼ中央部に位置している。中世から17世紀前半まで私市(きさい)城の城下であり、また、近世には日光街道栗橋の関、同脇往還川俣の関と中山道鴻巣宿を結ぶ交通の要衝であった。起伏の少ない台地上に展開した町場に玉敷神社はあり、町場を離れると水田を中心とする平野が広がっている。玉敷神社は延喜式内社で、明治維新以前は埼玉郡中の総鎮守として騎西領四十八ヶ村の氏神であった。現社地の騎西地区に隣接する正能(しょうのう)地区から私市城大手門前へ、そして現地へと、二度移転しているといわれている。玉敷神社神楽については、神社の神職を勤めた河野長門守盛永(1688~1736)が神社の要事を覚え書き風に記録したとされる『要用集』に、享保4年(1719)3月及び同19年(1734)4月、太々神楽が執り行われたとの記述がある。また、文政5年(1822)、同社の神楽師が神楽役としての裁許を神祇管領から受けた文書か4通現存している。これらの記録から玉敷神社神楽は、遅くとも17世紀後半に始まり、江戸時代を通じて行われてきたとされる。 玉敷神社神楽は、神社祭礼において行われており、現在は、2月1日の初春祭、5月5日の春季大祭、7月15日の夏季大祭、12月1日の例大祭の折、神社境内の神楽殿で奉納されている。かつては、騎西地区に隣接する正能地区の氏子のうち、十数軒の限られた家の長男へと伝えられてきた。しかし、十数軒の家で担ってゆくことが困難となり、昭和50年に玉敷神社神楽保存会を組織し、正能地区の人々を中心としながらも有志を含んで伝承していくこととなり現在に至っている。 神楽殿は、南面して建つ神社社殿に対し、その西側に東を正面として建つ。構造は、腰高の三方吹き抜けで、屋根は茅葺きである。前面が舞台で背後に楽屋がついている。舞台の高さは地表から1.5mほどあり、四方柱を配した正方形の舞台で、柱間二間の大きさである。また、舞台の東、南、北側には三尺の縁が廻っている。舞台奥には囃子方の座となる高さ一尺の台があり、囃子方は下手から鋲留め太鼓、カッコと呼ぶ締太鼓、笛の順に座る。舞台奥の上手、下手にそれぞれ楽屋に通じる出入り口があり、かつては上手も囃子方が使用したというが、現在は下手のみが使われている。下手の出入り口は舞台の三方に巡らされた縁より南に三尺張り出していて橋がかり様になっている。背後の楽屋の奥行きは約一間半である。神楽奉納の際は、正面の縁に三本の幣束を立て神座とし、神座に向かって神楽を演ずる。 演目は、「幣(みてぐら)の舞」「伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いさなみ)の舞」「五行(ごぎょう)の舞」「おかめの舞」「戸隠明神(とがくしみょうじん)の舞」「矢先(やさき)の白狐(びゃっこ)・稲荷神(いなりしん)の舞」「鹿島(かしま)・香取明神(かとりみょうじん)の舞」「春日明神(かすがみょうじん)の舞」「諏訪明神(すわみょうじん)の舞」「鬼(おに)に鍾馗(しょうき)の舞」「鈿女命(うずめのみこと)・猿田彦明神(さるたひこみょうじん)の舞」「恵比須神(えびすしん)の舞」「松尾神(まつおしん)の舞」「龍神(りゅうじん)の舞」「山の神の舞」「山めぐり」の16座に、番外「天の岩戸の舞」「種蒔き」の2座を含めて18座が伝承されている。座の順番は特に意識されておらず、祭礼に参加した神楽師の人数によって演じる座と座数を決める。演じ手には舞人と囃子方があり、囃子方は鋲留め太鼓、締太鼓、笛の各1人で構成される。舞人の数は、舞の座により異なるが、座の多くは一人舞であり、他に二人舞、三人舞、五人舞、また、「山めぐり」では全員が舞い巡る。 いずれの座についても、舞の構成は出の舞、本舞、引込みの舞の三部に分けることができる。保存会では出の舞にあたる部分を「出(で)」、引込みの舞に相当する部分を「シッコミ」と表現し区別している。出の舞は、舞人が舞台下手の出入り口から出て、囃子方の前で右回りに一巡りし、正面を向いて立つところまでである。この後、本舞へと移るが、18座のうち「山めぐり」以外は、四方を意識した四方固めを繰り返し行う。四方固めは、舞台の中央を起点とし、舞台の対角線上をそれぞれの隅に向かって舞い進むもので、北西の隅から順番に、北東、南東、南西の隅へと舞っていく。座によって舞い進む順路や採物、所作に若干の違いはあるが、基本的な四方固めの所作は共通している。演劇的な要素を含む「鬼に鍾馗」「恵比須神の舞」においても、この所作が舞われている。四方で舞った後は、正面神座へ進み、左回り、さらに右回りに一巡りして元の位置へ戻り、再び神座に進み出て着座し、拝礼して終わる。引込みの舞は、神座から出入り口まで、ほぼ一直線に歩み、幕へ入って終わる。 囃子の調子は、「平(ひら)神楽」「中速(なかはや)神楽」「速(はや)神楽」「三ツ拍子(みつびょうし)」が基本である。平神楽は静かな調子、速神楽は急調子で荒ぶる神の舞に用いられる。中速神楽は平神楽と速神楽の中間で、「おかめの舞」だけに奏される。三ツ拍子は、太鼓とカッコのみで笛を用いない楽となっている。また、出に対応する「出の楽」、シッコミに対応する「シッコミの楽」がある。 玉敷神社神楽は、いずれも仮面を用いる神楽である。「幣の舞」は直面でも舞われているが、仮面を用いることもあり、その時には「伊弉諾・伊弉冉の舞」の伊弉諾に用いる面を使っている。また、歌や科白は伴わない。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)