国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
須成祭の車楽船行事と神葭流し
ふりがな
:
すなりまつりのだんじりぶねぎようじとみよしながし
須成祭の車楽船行事と神葭流し
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年7月初旬~10月下旬(宵祭・朝祭は8月第一土日曜日)(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などへご確認ください)
※この行事は、平成14年2月12日に須成祭として記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されています。
※この行事は平成28年に「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産代表一覧表に記載されている
指定証書番号
:
461
指定年月日
:
2012.03.08(平成24.03.08)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
愛知県
所在地
:
保護団体名
:
須成文化財保護委員会
須成祭の車楽船行事と神葭流し
解説文:
詳細解説
須成祭は、蟹江町須成にある冨吉建速神社と八剱社の例祭で、疫病退散を祈願する天王信仰を背景に伝承されてきた祭りである。7月初旬から約3か月にわたって祭事が行われ、華やかな車楽船の出る行事と1年の穢れを植物の葭に託して川に流す神葭流しの2つの行事を中心に祭りが構成されている。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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須成祭の車楽船行事と神葭流し
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須成祭の車楽船行事と神葭流し
解説文
須成祭は、蟹江町須成にある冨吉建速神社と八剱社の例祭で、疫病退散を祈願する天王信仰を背景に伝承されてきた祭りである。7月初旬から約3か月にわたって祭事が行われ、華やかな車楽船の出る行事と1年の穢れを植物の葭に託して川に流す神葭流しの2つの行事を中心に祭りが構成されている。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)
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詳細解説
須成祭は、愛知県海部郡蟹江町須成にある冨吉建速神社と八剱社の例祭である。疫病退散を祈願する天王信仰に由来する祭礼行事で、華やかな車楽船の出る行事と1年の穢れを植物の葭に託して川に流す神葭流しの2つの行事を中心に構成される。この祭は、通称百日祭とも呼ばれるように、7月初旬から約3か月にわたって祭事が続き、祭りの中心となる8月初旬の宵祭と翌日の朝祭には船が蟹江川に出され、朝祭の翌日に神葭流しが行われる。 蟹江町須成は、愛知県の西部、木曽川下流域の水郷地帯にあり、町域の中央を蟹江川が貫流する。生業は農業を中心とするが、地理的に名古屋市と町域の東で接しており、海部郡南部を代表する在郷町として発達してきた。 冨吉建速神社は、明治以前は冨吉天王と呼ばれた天王社で、須成を中心とする冨吉荘の総鎮守として信仰を集めてきた。一方、八剱社は、古くは五社と呼ばれ、熱田神宮と縁の深い神社と伝えられている。両社はともに須成の鎮守として相殿で祀られ、両社を合わせて須成神社とも呼ばれている。 須成祭は、その起源は定かではないが、津島神社の天王祭で流した葭を須成の若者が持ち帰ったことに始まるという伝承がある。また、尾張藩が宝暦5(1755)年に尾張地方の祭礼を記録した『尾陽村々祭礼集』には、「冨吉天王之祭、船祭一輌、打囃子試楽有、村下之橋より天王橋迄渡」とあり、現在と同様の祭りの形態がうかがわれ、『尾張名所図会』の付録として知られる『小治田之真清水』には須成祭の絵図が載せられており、大勢の観衆とともに、蟹江川での船祭りや葭流しの情景が描かれていて、近世における須成祭の賑やかな様子を伝えている。祭りの期日は、旧暦6月17日、18日が宵祭、朝祭であったが、昭和40年に新暦に改められ、8月の第一土、日曜日に行うようになり、現在に至っている。 須成祭を構成する諸行事は、朝祭の期日を基準としてその前後に日取りが定められる。祭りの運営は、祭三役と呼ばれ、行事全体を取り仕切る祭総代2名と宿大将1名の年長者に、若衆と呼ばれる成人式を終えた未婚の男性たちが加わって行われる。若衆には、指導役の桜花、桜次、車楽船の行事を仕切る車大将、船の屋根に乗る山乗、神葭を担当する葭刈などの各役がある。これらの諸役によって行事が7月初めから順次行われていく。 車楽船の出る船祭りは、船に乗る稚児を選ぶ「稚児定め」にはじまり、天候の無事を祈って三重県桑名市多度町の多度大社に参拝する「多度参り」、祭りの宿となる公民館に稚児と諸役が一同に会し、祭り開始の挨拶を行う「宿入り」、船に付ける飾り花を製作する「花つけ」、船を組み立てる「船がらみ」を経て、宵祭を迎える。 宵祭の日は、午後から船に乗り込む男性たちが蟹江川で禊ぎを行った後、「天王参り」と称して、衣装をつけた稚児とその親役、諸役一同が行列を組んで神社に参拝する。稚児の一行はその後、地区内にある龍照院、松秀寺、善敬寺の3つの寺に「寺参り」をする。夜になると、宿で囃子を奏した後、稚児と祭三役以下の男性たちが蟹江川下流の飾橋に停泊する船に乗り込み、宵祭がはじまる。 須成祭に出る車楽船は、2艘の船を平行に並べて板を渡し、その上に二階造の屋形と三層構造の屋台を据え置く形態をとる。宵祭に出る船は、数多くの提灯で飾られ、巻藁船と呼ばれる。屋根上の真柱には1年の月日の数をあらわす12個の提灯が縦一列に並び、その周囲には365個の提灯が半球状に取り付けられる。船前方の屋根には、1か月をあらわす30個の赤いほおずき提灯が下げられる。船は、灯火を揺らしながら神社近くの天王橋まで蟹江川を上る。天王橋に到着すると、山乗がほおずき提灯を外し、餅とともに橋上の観衆目がけて投げ、宵祭は終了する。その後、午前零時から「山起こし」と称して船を模様替えする。全ての提灯を船から下ろし、伊弉諾尊、伊弉册尊の人形と紅白の梅花、桜花と呼ばれる飾り花、幕類などで飾り付けを新たにする。 翌日の朝祭は、再び飾橋から船に一行が乗り込み、天王橋に向けて出発する。装いを新たにした車楽船は、囃子を奏でながら水上を進む。天王橋に着くと、稚児を始め諸役が下船して神社に向かい、社殿で囃子を奉納する。その間、船に残った若衆たちは、「投げ花」といって飾り花の枝を折って観衆に投げ与える。飾り花は、夏病み除けや雷除けになるといわれ、観衆は競って奪い合い、家に持ち帰って床の間などに一年間供えておく。 一方、神葭流しは、宵祭までに「葭刈準備」「葭刈」「葭揃え」が行われる。「葭刈準備」では、ちまき作りと葭を刈り取る用具の準備を行い、その翌日が「葭刈」となる。蟹江川下流の弥富市にある亀ヶ池に行き、ご神体となる神葭の材料を刈り取ってくる。亀ヶ池までは、天王橋から川舟で下るが、その途中、若衆が橋の上や川岸にいる人たちにちまきを投げ与える。「葭揃え」では、刈ってきた葭を切り揃えて大きな葭の束を4本作り、神饌とともに社殿に供える。この葭束を「御神葭様」という。その後、朝祭の翌日が「葭流し」となる。早朝に、祭三役と葭刈役の若衆が社殿から神葭を蟹江川まで運び出し、舟の上で葭の束を十文字に組み、その中心に1年間の災厄を託した幣束を差し立て川に浮かべる。かつては、葭が流れ着いた地域が疫病退散を祈願して、葭を厳粛に祀っていたが、現在は、川の中に立てた4本の笹竹の間に納めておく。神葭は、この七日後に「棚上り」といって引き上げ、神社境内に設えた棚に遷し、灯明や供物をあげて祀る。これ以後「御神葭様参り」といって、70日間、地区の人たちが班単位に期間を割り振って毎日参拝する。70日目には「棚下し」が行われ、御神葭様を棚から下ろして境内で燃やし、長きにわたる須成祭の行事は終了する。 夏の祭礼行事として、祇園祭とともに、疫病除けの牛頭天王の信仰に由来する天王社の祭りとして注目されるものである。天王信仰に因む行事が広くみられる愛知県下において、風流的に発達した車楽船の出る優雅な船祭りと、葭に対する古い信仰を伝える神葭流しの2つの要素を伝えている類例の少ない伝承例であり、2つの行事を中心に種々の儀礼や行事が長期にわたって執り行われていることも貴重である。 祭礼船の出る天王祭は、木曽川中・下流域を中心に伝承されてきたが、現在では廃絶した事例が少なくない。そうしたなかで、本件は、天王信仰に由来する同種の祭礼行事の典型例と考えられるものであり、多度参りや投げ花など地域的な特色もみられ、我が国の夏の祭礼やその変遷を理解する上で重要である。(※解説は指定当時のものをもとにしています)