国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
花輪祭の屋台行事
ふりがな
:
はなわまつりのやたいぎょうじ
花輪祭の屋台行事
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年8月19、20日(指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
※この行事は平成28年に「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産代表一覧表に記載されている
指定証書番号
:
468
指定年月日
:
2014.03.10(平成26.03.10)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
秋田県
所在地
:
保護団体名
:
花輪ばやし祭典委員会
花輪祭の屋台行事
解説文:
詳細解説
本件は、秋田県鹿角市花輪に鎮座する幸稲荷神社と花輪神明社の合同の例大祭で各町から計10基の屋台がでて地区内を巡行する行事である。屋台の巡行は、19日夕方の御旅所詰めから20日深夜の赤鳥居詰めまで断続的に行われる。巡行中は本囃子を奏し、20日未明に行われる朝詰めでは神輿を前に各町が得意の囃子を奉納する。
屋台は地元で腰抜けと呼ばれる前部の床のない底抜け形式で、屋台に乗り込んだ太鼓の叩き手は歩きながらリズムをとって囃子を演奏する。年齢に応じて役割が決められる若者会などと呼ぶ組織により行われ、屋台が他町を通過する際のチョウザカイや巡行の区切りでのサンサなどの特色ある儀礼もみられる。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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花輪祭の屋台行事
花輪祭の屋台行事
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花輪祭の屋台行事
解説文
本件は、秋田県鹿角市花輪に鎮座する幸稲荷神社と花輪神明社の合同の例大祭で各町から計10基の屋台がでて地区内を巡行する行事である。屋台の巡行は、19日夕方の御旅所詰めから20日深夜の赤鳥居詰めまで断続的に行われる。巡行中は本囃子を奏し、20日未明に行われる朝詰めでは神輿を前に各町が得意の囃子を奉納する。 屋台は地元で腰抜けと呼ばれる前部の床のない底抜け形式で、屋台に乗り込んだ太鼓の叩き手は歩きながらリズムをとって囃子を演奏する。年齢に応じて役割が決められる若者会などと呼ぶ組織により行われ、屋台が他町を通過する際のチョウザカイや巡行の区切りでのサンサなどの特色ある儀礼もみられる。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
花輪祭の屋台行事は、秋田県鹿角市花輪に鎮座する幸稲荷神社と花輪神明社の合同の例大祭で、神輿の渡御に合わせて10基の屋台が地区内を巡行し、五穀豊穣や家内安全などを祈願する行事である。 花輪は、秋田県の北東部、米代川上流に位置する鹿角市の中心地で、近世より近隣の豊かな山林と鉱山で産する木材や鉱産物の集積地として発展してきた。近世には盛岡藩の代官所が置かれ、盛岡から鹿角街道が通じていた。明治以降も採掘・製錬技術の近代化で全国屈指の鉱産物量を誇り、鹿角郡の郡役所も置かれた。 幸稲荷神社は、六日町、谷地田町、大町、新町、横丁、旭町、上旭町を氏子域とする神社で、近世には盛岡藩が領国支配の単位として設けた通(とおり)の一つである花輪通の総鎮守であり、盛岡藩主の寄進による社殿の再建・改築も行われている。花輪神明社は、新田町、舟場町、舟場元町、組丁のほか周辺の農村部も氏子域とする神社で、近世の社殿修復の記録もある。2つの神社の氏子域で屋台をだすのは、舟場元町、舟場町、新田町、六日町、谷地田町、大町、旭町、新町、横丁、組丁の10町である。 花輪祭の起源は明確ではないが、明和2(1765)年の『御銅山御定目帳』に「花輪稲荷 毛馬内月山と隔年之祭礼也」とあるのが初見で、文久3(1863)年の『阿津免久佐』には「花輪祭中止」とあって近世には花輪祭の名称で行われていたことがわかる。その頃の花輪祭は、幸稲荷神社の祭礼であったが、昭和35年から花輪神明社の例大祭もこれに加わった。 各屋台の巡行は各町内の若者会などと呼ばれる組織が行い、行事全体の指揮は若者会の代表である正頭で構成される花輪ばやし若者頭協議会が行う。若者会は、高校卒業前後に加入して42歳で脱会する組織である。正頭を頂点に、正頭を補佐する内頭、屋台の巡行を取り仕切る外交長、巡行中に花輪ばやし若者頭協議会の指示を町内に伝達する先頭外交、外交長の指示に従って巡行を進める外交などの役がある。役員以外は内務と呼ばれる雑用や屋台の曳行、囃子の演奏をする。屋台の曳行や囃子の演奏には、小学校高学年以上の男女や芸人さんと呼ばれる町外の人も参加するが、喪中の人は参加できない。囃子に用いられる楽器は、太鼓、鉦、笛、三味線で、芸人さんは主に三味線を演奏する。 囃子は、本囃子、二本滝、羯鼓、霧囃子、宇現響、衹園、追込、不二田、矢車、拳囃子、吉原格子、サギリ、開化宇現響の13曲あり、天保年間(1830~1844)に京都から習ってきたなどと伝えられているものもある。巡行中は、通常、本囃子を演奏することになっており、屋台の動いている間は囃子の演奏を止めてはならないともされている。 屋台は、腰抜けと呼ばれる前部に床のない底抜け形式で、囃子を演奏しながら動けるように足回りは簡素な造りで、唐破風の屋根の鬼板や懸魚に精巧な彫刻が施され、周囲に約20個の提灯が吊される。太鼓の奏者は床のない前部に入って足や腰でリズムをとって歩きながら演奏し、笛と三味線の奏者は後部に乗って演奏する。また、鉦の奏者は高欄に乗ったり、屋台に乗らずに並行して歩きながら演奏する。 屋台の巡行では一定の手順に基づく儀礼がある。先頭を行く屋台が他町に入るときはチョウザカイと呼ばれる儀礼がある。これは、先頭の屋台と迎える屋台が町境で対面して挨拶を交わすもので、外交長どうしが交渉し、ときには撥合わせと称して屋台を接触させて囃子を競い合うこともある。チョウザカイが済むと、迎えた屋台が反転して先頭に立って巡行を再開する。なお、後続の屋台が他町に入るときはチョウザカイは行われない。また、屋台が特定の場に集合するとサンサと呼ばれる手締めをする。若者会の役員などが横並びに整列し「サンサンサントセ、オササノサントセ、ヨイヨイヨォーイ」と手拍子をしながら三度唱える。また、屋台が葬儀中の家の前を通る際は囃子をやめて提灯も消す。 花輪祭は、8月9日頃の囃子の練習を開始する棒入れから始まる。15日には花輪神明社の宵宮祭があり氏子総代が参集して神事をする。16日は2つの神社の神輿が町内を巡行した後、幸稲荷神社の神輿は花輪の中心部にある御旅所に遷座し、花輪神明社の神輿は還御する。御旅所は里宮とも呼ばれ、神事とサギリの奉納がある。各町はこの日に屋台を保管場所から出して18日まで屋台で囃子の練習をする。 19日は、夕方から全屋台が御旅所に集合する御旅所詰めが行われる。屋台が着くと、若者会の役員などが御旅所に参拝してからサンサをする。その後、駅前広場詰めと称して鹿角花輪駅前まで屋台を巡行して得意の囃子を披露し、サンサをした後、自町内に戻る。 20日は、日付が変わると同時に朝詰めが始まる。全屋台が米代川にかかる稲村橋に集合した後、枡形と呼ぶ花輪の南外れに向かう。全屋台が稲村橋に着く頃、神輿は御旅所から枡形に渡御する。そして神輿が枡形に遷座すると、屋台は稲村橋から枡形に向けて出発する。枡形に着いた屋台は、囃子をやめて提灯を消し、1基ずつ神職の祈祷を受けて得意の囃子を奉納する。最後に若者会の役員などがサンサをし、夜明け頃に屋台は霧囃子を演奏しながら自町内に戻る。昼は、門付けと称して各屋台が自町内を巡行し、主に子どもたちが囃子を演奏する。また午後、枡形に遷座していた神輿が幸稲荷神社に還御する。夕方になると、19日と同様に駅前広場詰めを行った後、赤鳥居詰めと称して花輪の北外れにある幸稲荷神社の赤鳥居まで巡行する。全屋台が赤鳥居に着くと、若者会の役員などが赤鳥居越しに幸稲荷神社に拝礼してからサンサをし、屋台は自町内に戻る。なお、赤鳥居詰めは、日付が変わる前に終えなければならないとされている。(※解説は指定当時のものをもとにしています)