国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
大津祭の曳山行事
ふりがな
:
おおつまつりのひきやまぎょうじ
大津祭の曳山行事
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年10月第二月曜日前の土・日曜日(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などへご確認ください)
指定証書番号
:
指定年月日
:
2016.03.02(平成28.03.02)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
滋賀県
所在地
:
保護団体名
:
大津祭保存会
大津祭の曳山行事
解説文:
詳細解説
本件は,滋賀県大津市にある天孫神社の例祭で行われる曳山行事で,からくり人形を載せた曳山13基が曳き出され,町内を巡行する。祭りの初日は宵宮といって,各町内の会所で宵宮飾りが披露され,深夜に及ぶまで,付設した曳山上で囃子を奏し続ける。
翌日は本祭で,各町内から出た13基の曳山がいったん神社に集結し,籤改めと称し,巡行の順番を確認する儀式が行われたのち,次々と市街地へと出発していく。巡行の途次では,所望といって,30か所ほどある所定の場所で,曳山ごとにからくり人形の操作や粽撒きなどを行い,これをその都度繰り返していく。こうして,夕方には終着点に至ると,曳き別れと称し,各町内へと戻っていく。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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大津祭の曳山行事
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大津祭の曳山行事
解説文
本件は,滋賀県大津市にある天孫神社の例祭で行われる曳山行事で,からくり人形を載せた曳山13基が曳き出され,町内を巡行する。祭りの初日は宵宮といって,各町内の会所で宵宮飾りが披露され,深夜に及ぶまで,付設した曳山上で囃子を奏し続ける。 翌日は本祭で,各町内から出た13基の曳山がいったん神社に集結し,籤改めと称し,巡行の順番を確認する儀式が行われたのち,次々と市街地へと出発していく。巡行の途次では,所望といって,30か所ほどある所定の場所で,曳山ごとにからくり人形の操作や粽撒きなどを行い,これをその都度繰り返していく。こうして,夕方には終着点に至ると,曳き別れと称し,各町内へと戻っていく。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
大津祭の曳山行事は、近江大津の総鎮守である天孫神社(四宮大明神)を中心とする例祭で行われる曳山行事である。大津祭は別に四宮祭と呼ばれることもあるが、その曳山行事は、からくり人形を載せた13基の曳山を旧町内より曳き出すもので、市内をはじめ湖南地方一円や京都方面からも多くの参詣客が訪れ、賑わいをみせている。 近江大津は、滋賀県大津市の南西部、琵琶湖の南に位置し、西に比叡山を挟んで京都と隣接する。古くより琵琶湖水運の港(津)として発達し、近世においては東海道の宿場町としてさらなる発展をみせ、大いに繁栄した。大津祭は、こうした水陸両運の要衝の地で発生し、その経済基盤を背景に成立していった都市型の祭礼である。この祭礼のはじまりは定かでないが、当初はその都度、趣向を凝らした練物が中心だったところへ、からくりの仕様や曳山の形式が徐々に取り入れられ、やがて固定化していったとされている。 寛永12年(1635)の「牽山由来覚書」によれば、慶長年間(1596~1615)に鍛冶屋町の治兵衛なる者が祭りで狸面を被って踊ったのをきっかけに、元和8年(1622)にはそれを腹鼓を打つ狸のからくりとして舁屋台に載せるようになり、寛文12年(1635)にはさらに地車を付して曳屋台としたとあり、この段階ではこれらはまだ練物における舁物、曳物とみるべき簡素な造りのものであったと考えられるが、より今日に近い曳山となったのは寛永15年(1638)のことである。文化10年(1813)にまとめられた『四宮祭礼牽山永代伝記』によると、この年より京都祗園祭の山鉾を参考に三輪車の曳山を造って巡行したとあって、以後安永5年(1776)までの間に、それぞれ町内ごとに順次曳山を誂えていったことが記されている。日程としては、通常9月9・10日であったが、明治の改暦以後、10月9・10日に改められ、平成12年からは10月第二月曜日(体育の日)前の土・日曜日とし、現在に至る。 行事の運営は、曳山町といって、曳山を所有する旧町内が中心となって行っているが、文化9年(1812)に当番町制度が発足し、文政8年(1825)以降はそれが2町受け持ちとなって、今日でも毎年、当番町・副当番町と称し、2町が実務的な運用面を担うことになっている。これら当番は輪番制であり、副当番町を経験した翌年、主たる当番町を任されるため、2か年続けてということになる。現在では、山を曳かず居祭りを行う町内も含め、これらを包括した形で大津祭保存会が組織され、保存・継承を図っている。町内の内訳は、鍛治屋町・猟師町・玉屋町・太間町・柳町・中京町・上京町・丸屋町・中堀町・湊町・白玉町・南保町・後在家町・下小唐崎町・堅田町・新町・下百石町である。 祭日は、前日を宵宮、当日を本祭という。本祭の一週間前になると、山建てといって、曳山の組立作業がはじめられ、いよいよ祭り間近となる。宵宮では、町家とも称する各町内ごとにある会所で、からくり人形や懸装品などの宵宮飾りが披露され、飲食に興じつつ夜半に及ぶまで、付設した曳山上で囃子を奏し続ける。本祭では、早朝より準備が進められ、それぞれ町内から出立した曳山一三基がいったん天孫神社に集結する。なかには茶弁当と呼ぶ台車を引き連れる曳山もあって、古風を留める。しばらくしたのち、あらかじめ籤引きによって定められた順に、次々と市街地へと巡行していくが、この際には籤改めといって、籤の確認をする儀式がある。籤は、前月の9月16日に籤取り式と称し、前もって順番を決めておくことになっているが、例外として鍛治屋町の曳山(西行桜狸山)のみ、籤取らずといって、籤は引かずに第一番目と定められている。巡行には所定の経路があり、まずは天孫神社から北に向かい、浜通りまで出ると西に進み、国道161号線に至って南下、そして中町通りを東に進んで中央通りまで出る。その途次では所望といって、所定の箇所でからくり人形の操りや粽(ちまき)撒(ま)きなどがある。所望の箇所は、その年によって若干の増減があるが、約30ヶ所ほどあって見物人で賑わう。こうして昼頃、いったん曳山は中央通りに全基を揃えて休憩に入ったのち、再び同様にして巡行をはじめる。午後からは、中町通りを東に進んで南下し、京町通りまで出ると西に向かい、やはり国道まで至って南下、松屋通りから寺町通りを抜け、終着地点に至ったところで曳き別れと称し、各町内へと帰っていく。この頃はすでに夕暮れ時で、帰着後はそれぞれ直会となって、祭りは終了する。 大津祭の曳山は、すべての曳山上に異なったからくり人形を備えていること、曳山の形態が二層吹抜屋形の三輪構造となっており古態を留めていること、京都祇園祭に比肩する懸装品を有していること、などがその特色としてあげられる。特に、からくりの仕様は京都に端を発したとされ、のちに中京圏で飛躍的に発展することとなるが、それ以前の京様に近いものとされている。そして、三輪構造の曳山は、二輪から四輪へと展開する中間形態を留めたものと考えられ、曳山形態の変遷を考える上で注目される。また、代表的な懸装品としては、上京町(月宮殿山)と太間町(龍門滝山)の曳山では、16世紀ヨーロッパのブラバン・ブリュッセル製のトロイア陥落図に係るタぺストリーの一部が見送幕として使われており、これは京都祇園祭の白楽天町(白楽天山)の前懸と同じく一片をなすものでもある。 山・鉾・屋台の出る行事は、日本の各地において地域的な特色をもって伝承されている。大津祭の曳山行事は、祭事記録を書き継いできたこともあって、その歴史的経緯が比較的明瞭であり、また、他の地域ですでに失われた祭礼の様式や形態を今日によく伝えている。特に、曳山の特色として、すべての曳山上に異なったからくり人形を備えていること、曳山の形態が古態を留めた三輪構造となっていること、「京都祇園祭」に比肩する懸装品を有していることなどが指摘できるが、これらは、京都の発生とされるからくり人形の仕様や、曳山そのものの形態的変遷、あるいは舶来品その他による染織技術に与えた影響やその後の進展などを考える上で欠くことのできないものである。 大津祭の曳山行事は、交通の要衝の地であった近江大津において、京都の影響を受けつつも、独自の祭礼文化を形成し継承してきた祭礼行事で、近世都市祭礼の性格をよく伝えており、我が国の山・鉾・屋台行事の伝播のあり方や変遷を理解する上で重要である。(※解説は指定当時のものをもとにしています)