国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
西大寺の会陽
ふりがな
:
さいだいじのえよう
西大寺の会陽
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年2月第三土曜日(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などへご確認ください)
指定証書番号
:
指定年月日
:
2016.03.02(平成28.03.02)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
岡山県
所在地
:
保護団体名
:
西大寺会陽保存会
西大寺の会陽
解説文:
詳細解説
本件は,岡山県岡山市東区にある西大寺に伝承される年頭の裸祭りで,修正会の最終日に当たる結願の日に,数千人に及ぶまわし姿の男性たちが福を求めて本堂に参集し,宝木と呼ばれる木製の護符を奪い合う。
会陽の当日は,参加する男性たちが西大寺境内の垢離取場で身を清め,地押しと称して境内を練った後,本堂に参集する。その数は数千人に及び,本堂の大床の上で,本押しと称してもみ合いをする。午後10時になると,本堂内陣の御福窓から西大寺住職が2本の宝木をその年の恵方に向けて投下し,それをめぐって激しい争奪戦が繰り広げられる。宝木を取った者は,西大寺近くに設けられた仮受所に向かい,白米を盛った一升枡に宝木を突き立て,取った宝木の検分が無事に終わると福男となる。その後,宝木は祝主が貰い受ける。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
写真一覧
西大寺の会陽
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西大寺の会陽
解説文
本件は,岡山県岡山市東区にある西大寺に伝承される年頭の裸祭りで,修正会の最終日に当たる結願の日に,数千人に及ぶまわし姿の男性たちが福を求めて本堂に参集し,宝木と呼ばれる木製の護符を奪い合う。 会陽の当日は,参加する男性たちが西大寺境内の垢離取場で身を清め,地押しと称して境内を練った後,本堂に参集する。その数は数千人に及び,本堂の大床の上で,本押しと称してもみ合いをする。午後10時になると,本堂内陣の御福窓から西大寺住職が2本の宝木をその年の恵方に向けて投下し,それをめぐって激しい争奪戦が繰り広げられる。宝木を取った者は,西大寺近くに設けられた仮受所に向かい,白米を盛った一升枡に宝木を突き立て,取った宝木の検分が無事に終わると福男となる。その後,宝木は祝主が貰い受ける。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
西大寺の会陽は、岡山県岡山市東区にある西大寺に伝承される年頭の裸祭りで、修正(しゆうしよう)会(え)の最終日に当たる結願の日に、数千人に及ぶまわし姿の男性たちが福を求めて本堂に参集し、宝木(しんぎ)と呼ばれる木製の護符を奪い合う。 岡山市東区のうち、西大寺のある西大寺地区(旧西大寺市)は、県東部を流れる吉井川の河口に位置し、古くから港町、門前町として栄えてきた。西大寺は、天平勝宝三年(七五一)の開基伝承を持つ真言宗の古刹で、千手観世音菩薩を本尊とする。中世には、すでに一定の伽藍を備え、複数の塔頭を持つ寺院として存在しており、近世には観音院を院主とする五か寺から成る備前有数の大寺に発展した。この観音院が現在の西大寺本堂である。 会陽の起源については、永正年間(一五〇四~一五二〇)の忠阿(ちゆうあ)上人の時代に、修正会の結願の日に参詣者に守護札を出したが希望者が多く、これを参詣者の頭上にを投げたところ、奪い合いとなったことに始まるという寺伝があり、寛文元年(一六六一)の『備前(びぜん)国(のくに)西大寺(さいだいじ)縁起(えんぎ)』には行事の記述がみえる。また、貞享から元禄年間(一六八四~一七〇四)に成立したとされる『吉備(きび)前鑑(まえかがみ)』には「エイヤウ押」の呼称で行事が記されている。 会陽という名称は、行事の際の「エイヨウ、エイヨウ」という掛け声に由来する、あるいは、陽春を迎えるという吉兆の意味があるなどの諸説があるが詳らかでない。期日は、かつては一月十四日の深夜に行われており、昭和三十七年から現行の日時に改められている。行事の準備や運営については、仏教の儀式である修正会は山主と呼ばれる西大寺住職をはじめとする寺方が担当し、会陽は昭和二十五年に結成された西大寺会陽奉賛会が中心となって執り行っている。 行事の準備は、結願の日の十九日前に行われる事始式からはじまる。西大寺客殿にて、世襲の寺大工によって宝木の製作に用いられる道具が磨かれ、本堂では行事の無事を祈って大般若経が転読される。この三日後に宝木の材料を取りに行く宝木取り、その翌日に宝木を作る宝木削りが行われる。宝木取りは、正装した総代の一行が午前零時に西大寺を出発し、東区広谷(ひろたに)の山中にある無量寿院まで片道約一時間の道のりを歩いて宝木の原木を受け取りに行く儀礼である。原木はカシ材で、無量寿院の僧侶が予め採取して香で焚きしめており、翌日に西大寺の住職と僧侶一名がこれを材料として一対の宝木を削り出す。宝木は、一五センチメートル前後の円筒形の護符で、出来上がると版木で刷った牛(ご)玉(おう)宝(ほう)印(いん)で包んでおく。その後、一四日前になると修正会が開かれる。修正会は、西大寺だけでなく、近隣の真言宗寺院の僧侶も参集し、一二人の職衆を結成して行われる。国家安泰や五穀豊穣などを祈って諸法が修され、その最後の日に会陽が行われる。 会陽の当日は、市内はもとより県内外の広い地域から多くの参詣者で賑わう。会陽への参加者は、白のまわしと足袋を着けた中学生以上の男子で、裸(はだか)と称されている。西大寺の境内では、午後三時頃から小学生による子供会陽(少年はだか祭り)が行われ、それが終わると、会陽に参加する男性たちが西の仁王門から境内に入りはじめ、南にある垢離取場で冷水を浴びて身を清める。その後、地押しと称して境内を西回りに練る。本堂、次いで裸の守護所として信仰される牛(ご)玉(おう)所(しよ)権現(ごんげん)に参り、結界となる四本柱を通り抜け、肩を組み合うなどして気勢を上げる。 宝木投下の時間が近づくと、触れ太鼓の一行が西大寺の地区内を回り、それを合図に境内は裸の群れが数を増していく。裸の集団は、地押しを何度も繰り返した後、本堂の大床に向かい、本押しと称して床上でもみ合いや押し合いをはじめる。本堂一帯は、数千人に及ぶ裸の男たちでたいへんな熱気となり、本堂の脇窓から清水(せいすい)方(かた)と呼ばれる水撒き役が柄杓で水を打つ度に白い蒸気が立ちのぼる。 午後一〇時になると、山主が本堂内陣にある御福(ごふく)窓(まど)まで上がり、二本の宝木をその年の恵方に向けて投下する。それと同時に本堂の明かりが消されると、宝木が投げられた場所を中心として裸形の集団に渦が生じ、激しい争奪戦が繰り広げられる。宝木のほかに、柳の枝を割って束にし、牛玉宝印で包んだ串(く)牛(し)玉(ご)が職衆によって脇窓から投げ入れられる。争奪の末、宝木を手にした者は、境内を抜けて岡山商工会議所西大寺支所内に設けられている仮受所に駆け込み、白米を持った一升枡に宝木を突き立てる。境内では、方々でもみ合いが続いているが、宝木が外に出ると、「宝木が抜けたぞ」などと何処からともなく声があがり、裸の群れは次第に引いて行く。 宝木は、検分役の西大寺の僧侶によってその日のうちに真贋が判定される。宝木を削り出した原木の切り口と照合させて慎重に検分が行われ、本物であることが確かめられると、宝木を獲得した者は正式に取主(とりぬし)として認められて福男と呼ばれる。宝木は、福男となった取主から祝(いわい)主(ぬし)が貰い受ける。祝主は、会陽の協賛者で、信仰心が篤い者が相応しく、かつては地元の有志など個人であったが、近年は岡山県内の有力な企業がなる場合が多い。この日の深夜、西大寺客殿にて、祝主、取主の近親者などが集まり、祝い込みの儀式が行われる。宝木は厨子に納められて祝主に渡され、祝主は「御福頂戴」の文字を行灯に書き入れ、これが西大寺の鐘楼門に掲げられる。 翌日から三月初旬までの二週間の間は、後祭りと称され、いくつかの行事が行われる。西大寺客殿での宝木納めの祝い式、本堂西側の濡れ縁に祝主から寺に贈られた供物を高く積んだ大飾りの披露、参詣者に雑煮を振る舞う宝来(ほうらい)春(しゆん)、稚児行列などが行われる。 仏教法会である修正会に由来したり、それに伴って行われる民俗行事は各地に伝承されているが、会陽と呼ばれ、裸形の男性たちが宝木を争奪する年頭の裸祭りは、岡山県下と香川県の一部の限られた地域に伝承されてきたもので、地域的特色が顕著である。会陽は、岡山市内を中心にかつては県内の百か所以上の地域で行われていたことが知られているが、今日ではその多くが廃絶しており、現存の事例は十数例に過ぎない。このような現況において、西大寺の会陽は、伝承状況がきわめて良好であり、行事の規模も大きく、宝木の取り扱いに関する儀礼も守られていて、岡山県内に伝承される会陽の典型例として貴重である。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)