国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
種子島宝満神社の御田植祭
ふりがな
:
たねがしまほうまんじんじゃのおたうえまつり
種子島宝満神社の御田植祭
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
生産・生業
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年4月3日(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などへご確認ください)
指定証書番号
:
指定年月日
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2016.03.02(平成28.03.02)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
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所在都道府県、地域
:
鹿児島県
所在地
:
保護団体名
:
宝満神社赤米お田植え祭り保存会
種子島宝満神社の御田植祭
解説文:
詳細解説
本件は,鹿児島県熊毛郡南種子町茎永に鎮座する宝満神社で行われる行事で,赤米,御稲などと呼ばれる赤みを帯びた米の苗を神田に植えて豊作を祈願する農耕行事である。
神田に隣接した御田の森と呼ばれる小高い山で赤米の苗などを供えての祈祷があり,苗が授けられる。
次いでオセマチと呼ばれる神田での田植えとなり,田植歌と太鼓に合わせて男性のみによって厳かに行われる。
田植えが終わると,神田に隣接した舟田と呼ばれる三角形の田で,氏子の中の夫婦一組が両手に赤米の苗をもって御田植舞を奉納した後,手にした苗を舟田に植える。
最後に直会(なおらい)があり,前年に収穫された赤米の握り飯などが供される。直会で供されたものを食べると,1年間無病息災に過ごすことができるとされる。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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種子島宝満神社の御田植祭
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種子島宝満神社の御田植祭
解説文
本件は,鹿児島県熊毛郡南種子町茎永に鎮座する宝満神社で行われる行事で,赤米,御稲などと呼ばれる赤みを帯びた米の苗を神田に植えて豊作を祈願する農耕行事である。 神田に隣接した御田の森と呼ばれる小高い山で赤米の苗などを供えての祈祷があり,苗が授けられる。 次いでオセマチと呼ばれる神田での田植えとなり,田植歌と太鼓に合わせて男性のみによって厳かに行われる。 田植えが終わると,神田に隣接した舟田と呼ばれる三角形の田で,氏子の中の夫婦一組が両手に赤米の苗をもって御田植舞を奉納した後,手にした苗を舟田に植える。 最後に直会(なおらい)があり,前年に収穫された赤米の握り飯などが供される。直会で供されたものを食べると,1年間無病息災に過ごすことができるとされる。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)
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詳細解説
種子島宝満神社の御田植祭は、鹿児島県熊毛郡南種子町の茎永地区に鎮座する宝満神社の神田で、赤米、赤の米、御稲などと呼ぶ赤みを帯びた米の苗を氏子が儀礼的に植え、その年の豊作を祈願する行事である。 南種子町は、鹿児島県の大隅半島から南に約40㎞にある種子島の南部に位置する。茎永地区は、町の南東部に位置し、島内で最も沖積平野の発達した地域で、古くから稲作が盛んであった。 宝満神社は、茎永地区の氏神で、玉依姫を祀る。御田植祭で用いられる赤米は、玉依姫がこの地に遷座する際に携えてきた米であると伝えられ、その際に乗ってきた船を象ったのが赤米の苗を植えた後に舞われる御田植舞の舞台となる舟田であるとも言い伝えられている。 御田植祭の起源は定かでないが、文化4年(1807)に書かれたとされる『寶満宮縁起』には行事に関する記述がみられる。また、行事で用いられる赤米が絶えたときは、西之表市国上浦田に鎮座する浦田神社の御田植祭で用いられる白米の苗をもらい受けて御田植祭で植えると赤米が収穫できると言い伝えられてきた。行事は、かつては茎永地区の農家の田植えに先立って適宜行われていたが、昭和10年代に水稲の早期栽培が導入されたのを契機に従来の伝承が次第に難しくなり、平成7年からは毎年4月3日に固定して行われるようになっている。 御田植祭は、宝満神社の鎮座する松原山から北へ200mほどいった場所で行われる。この一角は、高さ10mほどの御田の森と呼ばれる小高い山を中心に、その北西に180㎡ほどの御田、北に150㎡ほどのオセマチ、東に60㎡ほどの舟田という三種の神聖な田が隣接している。 行事は、祝殿と呼ばれる神職と、氏子たちのうち地区内の10の集落から1人ずつ選ばれた氏子総代と茎永地区公民館役員を中心に行われる。祝殿は、地区在住の男性で、代が替わると氏子から選ばれることになっている。御田植祭の行われる三種の神聖な田のうち、赤米の苗が植えられる御田とオセマチでは、3月に入ると祝殿を中心に氏子も協力して田打ち、代搔きなどの作業を行う。また、赤米の苗は祝殿の家に用意された苗代で栽培される。いずれも男性だけで行うこととなっており、肥料や農薬も使ってはならないとされている。こうして行事の前日までに御田やオセマチの代搔きや畔塗りなどを終え、オセマチや舟田の周囲に幟が立てられる。 行事当日は、祝殿によるシュエートリと呼ばれる浄めの儀礼から始まる。「人と会うと穢れる」「人と会っても話してはいけない」といわれ、シュエートリは夜の明けないうちに行われる。白装束を着た祝殿が、地区の南にある宮瀬川の河口付近の砂浜で海に入り、10枚ほどのタマシダの葉に海の砂を包んで苞状にしたものを二対作って持ち帰る。そして夜が明けると、二対のうちの一対を御田の森の登り口の両脇に供え、もう一対を御田の森の頂上に生えるハマガシの木の両脇に供える。また、氏子総代や茎永地区公民館役員も協力して、ハマガシの周囲に注連縄を張り、根元に置かれたサンゴの上に、赤米の生米、塩、尾頭付きの魚2匹、野菜、果物、赤米の苗2把、お神酒などを供える。また、オセマチの周囲にも注連縄を張り、赤米の苗をオセマチまで持ってきて苗取り拍子という歌を歌いながら束状に括っていく。 これらの準備作業が終わると、御田の森のハマガシの前で祝殿による祈祷があり、氏子総代らも参列する。御田の森は男性だけが立ち入ることができるとされている。祝殿の祈祷が終わると、お苗授けの儀と称して、祝殿が供えられた2把の赤米の苗を氏子総代長に手渡す。そして氏子総代長は、2把の苗のうち1把を茎永地区公民館役員の長である自治公民館長に、もう1把を舟田で御田植舞を奉納する夫婦に手渡す。自治公民館長は苗を受け取ると、オセマチまでいって水口付近に植える。 自治公民館長がオセマチの水口付近に苗を植え終えると、オセマチでの田植えが始まる。氏子総代がエブリで田を均した後、苗の束が田に投げ入れられ、小学生以上の男性15人ほどが横一列になって田植えを行う。作り拍子と呼ばれる田植歌と太鼓に合わせ、田植綱を目安に後ろに下がりながら苗を丁寧に植えていく。作り拍子の歌い手と太鼓を叩く男性は同一人物であることが多く、太鼓は直径50㎝ほどの締太鼓を用いる。オセマチでの田植えが終わると、太鼓は舟田に移動するが、植え手はそのままオセマチの西に隣接した御田にも苗を植えていく。 やがて御田にも苗を植え終わると、舟田で御田植舞が奉納される。御田植舞は、社人の舞、赤米の舞ともいわれ、紋付きを着て白足袋(たび)を履いた氏子総代の夫婦一組が御田の森に向かって舞を奉納する。夫婦のうち、御田の森に向かって右が男性、左が女性と決まっており、それぞれ赤米の苗を両手に持ち、両足で田を踏みしめながら、太鼓と作り拍子に合わせて苗を目の高さから左右に振り落す所作を繰り返す。これは踏み耕と苗を植える動作を象徴したものとされる。またこの間、夫婦の傍らでは氏子総代の一人が桶で水を舟田に注いでいる。やがて御田植舞を終えると、夫婦は手にしていた苗を舟田に挿す。 その後、舟田の東に隣接した一角にゴザを敷いて直会となる。ここでは昆布・石蕗・飛魚などの煮つけのほか、当地でシャニンノハと呼ばれるゲットウの葉で包んだ赤米のにぎり2個と甘酒も振る舞われ、これらを食べると1年間無病息災に過ごせるといわれている。 なお、稲刈りは9月末から10月初めで、御田の森での祝殿の祈祷の後、氏子総代長が刈り取った2株の初穂を宝満神社の拝殿の両脇に吊り下げて奉納し、収穫に感謝する。 我が国では、神社に付随した神田などで氏子が儀礼的に田植えをして豊作を祈願する御田植祭と呼ばれる農耕行事が西日本を中心に広く伝承されている。本件はその分布の南限に位置するもので、この種の行事の典型的な事例である。 また、神田に隣接した神聖な小高い山で苗を授かる点は農耕行事の古い姿がうかがわれるうえ、赤米の苗を植える点や田植え後に御田植舞が奉納される点など地域的特色も豊かであることから、我が国の稲作に関わる農耕行事の変遷や意義を理解する上で重要である。(※解説は指定当時のものをもとにしています)