国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
常陸大津の御船祭
ふりがな
:
ひたちおおつのおふねまつり
常陸大津の御船祭
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:5年ごとの5月2日・3日(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
指定証書番号
:
指定年月日
:
2017.03.03(平成29.03.03)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
茨城県
所在地
:
保護団体名
:
常陸大津の御船祭保存会
常陸大津の御船祭
解説文:
詳細解説
本件は,北茨城市大津町に鎮座する佐波波地祇神社の春季例大祭で行われる行事で,神輿を木造船に載せて町内を巡幸し,豊漁や海上安全などを祈願する。
2日の宵祭では,美しく飾り付けた巨大な木造船が,神輿を載せない空船と呼ぶ状態で神社の麓まで巡行する。また,夜には神社で神輿に神霊が遷される。
3日の本祭では,木造船が神社から渡御する神輿を途中で載せた神船と呼ぶ状態で町内を巡行する。途中,町境などで御船歌を奉納しながら海辺まで到着した後,神輿は降ろされて神社に戻る。
巡行は,ソロバンと呼ぶ木枠を路上に敷き,木造船を左右に激しく揺らしながらその上を豪快に滑らせて行われ,この間,囃子が間断なく奏される。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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常陸大津の御船祭
常陸大津の御船祭
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常陸大津の御船祭
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常陸大津の御船祭
解説文
本件は,北茨城市大津町に鎮座する佐波波地祇神社の春季例大祭で行われる行事で,神輿を木造船に載せて町内を巡幸し,豊漁や海上安全などを祈願する。 2日の宵祭では,美しく飾り付けた巨大な木造船が,神輿を載せない空船と呼ぶ状態で神社の麓まで巡行する。また,夜には神社で神輿に神霊が遷される。 3日の本祭では,木造船が神社から渡御する神輿を途中で載せた神船と呼ぶ状態で町内を巡行する。途中,町境などで御船歌を奉納しながら海辺まで到着した後,神輿は降ろされて神社に戻る。 巡行は,ソロバンと呼ぶ木枠を路上に敷き,木造船を左右に激しく揺らしながらその上を豪快に滑らせて行われ,この間,囃子が間断なく奏される。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
常陸大津の御船祭は、茨城県北茨城市大津町に鎮座する佐波波地祇神社の春の例大祭で行われる行事で、神社から海辺に渡御する神輿を飾り付けた船に載せて町内を巡幸し、豊漁や海上安全などを祈願する行事である。 大津町は、茨城県の最北、福島県との境に位置する。東に太平洋をのぞみ、江戸時代から水戸藩領を代表する漁村として明治時代までは鰹の一本釣り、その後は鰯の巻き網漁が盛んで、現在でも県下有数の水揚げを誇る。 佐波波地祇神社は、大津町の氏神で、市街地の背後の宮平の高台に鎮座する。主祭神の天日方奇日方命のほか五つの神を祀るため六所明神とも呼ばれ、近郷近在から広く信仰を集めてきた。特に漁業者の信仰は篤く、神社西側にあった宮の松と呼ぶ松の古木はかつて漁場の位置を目視で特定する山アテの対象ともされた。 御船祭の起源は詳らかではないが、享保11年(1726)に水戸藩儒臣の丸山可澄が記した「佐波々地祇神社縁起」から江戸時代には神輿を船に載せて渡御する行事が行われていたことがわかる。例大祭は、もとは大漁の年の旧暦3月9日・10日に行われ、明治41年(1908)に大漁の年の新暦5月9日・10日となり、昭和49年からは5年ごとの新暦5月2日・3日に行われるようになった。 行事は、大津町を3つに分けた大中、大東、大西の三町内が年番で当番町となって行われる。各町内には行事を指揮する頭取1名、頭取を補佐する副頭取2名、頭取の指示で行事を差配する世話人約20名がおり、これら役員の指揮で若衆が船を曳く。囃子方も各町内にあり、全体を指揮する御囃子師匠のもと、笛、小太鼓、大太鼓、鉦の奏者が数名ずついる。御船歌を歌う水主連は、大津町の漁業者10数名から組織される。歌い手は水主といい、年長者の水主師匠1名、御船歌をリードする唄上5名等の役がある。また、神輿の担ぎ手は数え42歳の厄年と前厄・後厄の男性が主で、神輿の警護は両姓といわれる鐡家と鈴木家の男性と決まっている。 行事の準備は、1月16日の大日待から始まる。各町の役員が大津町公民館に集まって例大祭の執行を正式決定し、御船歌と囃子が奏される。3月から御船歌や囃子の練習を始め、船の修理や、船の巡幸に使うソロバンの修理・補充も行う。船は重さ約5トン、長さ約15mの巨大な木造船で、祭事船と呼ばれ、櫓を組み、舷の両面には魚やおかめ・ひょっとこなどを描く。特に舳にはカラカイ(エイ)を描くことになっている。ソロバンは、長さ約1mの雑木を井桁に組んだもので、360丁ほど用意する。4月下旬には町内に注連縄を張り、町内の境にはチョウマタギと呼ぶ木製の門を設え、5月1日には船に曳綱をとりつける。 5月2日は、宵祭で、船を神輿を載せない空船で巡行する。昼過ぎ、船の置かれている大東の川尻で神事があり、水主師匠が船首に御神酒をかける。そして囃子方と水主が乗船して囃子と御船歌を奉納し、水主が下船して再び囃子が奏されると出発となる。空船は川尻から宮平の西麓に鎮座する諏訪神社付近まで巡行する。そこは大津町の西端で、祭神が海から上がった場所とも伝えられ、四方に注連縄を張った御仮屋を設けてある。 巡行は、船曳(ふねひ)きといい、かつて漁船を陸に揚げた方法を応用する。若衆がソロバンを船の前方約50mに敷き、両舵にしがみついて左右に船を激しく揺らす。そして世話人の合図で一気に綱を曳いて豪快に前方に滑らす。船が通過するとソロバンを再び船の前方に敷く。敷設の際も世話人の指示に従い、船に近い所は密に、遠い所は粗に敷く。また道の傾斜に応じて「くさびをうつ」などと称して一部を重ねて船が道路の中央を通るようにする。ソロバンの敷設と曳行を繰り返して船は巡行する。巡行中、若衆を鼓舞して船を押し上げるとして囃子が間断なく奏される。通常曳行時はテンポの良いバカバヤシ、ソロバンの敷設時は比較的ゆったりしたカンダバヤシやカワチガエシが奏されることが多い。御仮屋に着くと船は一晩停泊する。夜、神社で神事があって神輿に神霊が遷されると、両姓が寝ずの番と称して翌朝まで拝殿でこれを警護する。 5月3日は、本祭で、神社から渡御する神輿を御仮屋で船に載せて町内を巡幸した後、神輿が海辺で潮垢離をとって還御する。早朝、神社での神事の後、囃子、御船歌、囃子が順に奉納される。そして宮出しと称して両姓が神輿を拝殿から境内に出すと、厄年の男性らが神輿を担いで御仮屋まで渡御する。御仮屋に着くと、再び神事があって御船歌と囃子が奉納され、神輿を船に載せる。神輿を載せた船は神船と呼ばれ、神職、囃子方、水主など約40人が乗り込んで巡幸が始まる。 巡幸は、空船の時と同様にソロバンの敷設と船の曳行を繰り返し、御仮屋のある大西から大中を通って大東の川尻まで行われる。途中、チョウマタギや町内の祠の前にくると船を停止して御船歌を奉納する。チョウマタギでは当番町の頭取が通過する町の頭取に通行の許しを得る問答も交わす。神船は後退できないとされるため、停止位置ではソロバンを積み上げて強制的に停止させる。また、御仮屋から約100mのT字路では、船首を中心軸に船尾を大きく振って直角に向きを変えることから巡幸中の見せ場の一つとなっている。 川尻に着くと、神職・囃子方・水主が下船し、神輿を船から下ろして海辺に行って潮垢離の式となる。鐡家と鈴木家の代表2名が海水を浸した御幣で神輿を浄める。そして御船歌の奉納後、神輿は神社に還御する。神社では再び御船歌が奉納され、拝殿で鐡家と鈴木家が神輿を受け取って神霊が戻される。最後に境内で当番町の頭取・御囃子師匠と次年の当番町の頭取・御囃子師匠の間で引き継ぎの挨拶が交わされる。 なお、毎年の例祭は休祭ともいい、5月3日に神社で神事と囃子や御船歌の奉納がある。かつては神輿が渡御しないと次の当番町に引き継げないとされ、休祭でも神輿を担いで海辺まで渡御して潮垢離して還御した。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)