国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
薩摩硫黄島のメンドン
ふりがな
:
さつまいおうじまのめんどん
薩摩硫黄島のメンドン
写真一覧▶
地図表示▶
解説表示▶
種別1
:
風俗慣習
種別2
:
年中行事
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年旧暦8月1日・2日(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
※本行事は平成30年11月29日に「来訪神仮面・仮装の神々」の一つとしてユネスコ無形文化遺産代表一覧表に記載されている
指定証書番号
:
指定年月日
:
2017.03.03(平成29.03.03)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
鹿児島県
所在地
:
鹿児島県鹿児島郡三島村
保護団体名
:
硫黄島八朔太鼓踊り保存会
薩摩硫黄島のメンドン
解説文:
詳細解説
薩摩硫黄島のメンドンは,奇怪な容姿を有し,畏くも怖ろしいものとされており,八朔の行事日となる旧暦の8月1日,2日に現れ,人びとの邪気を追い祓う。
1日の夕方,熊野神社前の広場で若者たちが輪になって太鼓踊りを演じていると,突如,拝殿奥から1体のメンドンが走り込んできて,踊り手の周囲を3周し,去っていく。これが終わると,次々とメンドンたちが走ってきては,踊りの邪魔や,飲食に興じる観客たちの中に分け入るなど,悪戯を始める。手には枝葉を携えており,これでしきりに叩く。叩かれると魔が祓われてよいという。こうして,メンドンらは神社を出たり入ったりしながら,せわしく駆け廻るが,翌日の夜中まで所かまわず出没,徘徊している。
翌2日には,叩き出しといって,島を一巡する太鼓踊りがある。このときメンドンは隊列の先頭につくことになっており,所定の場所に到着すると,揃って海に向かって悪いものを追い祓う。こうして,最後は神社に戻って締めの踊りをし,あとは花開きと称する直会となって,行事は終了する。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
写真一覧
薩摩硫黄島のメンドン
薩摩硫黄島のメンドン
写真一覧
薩摩硫黄島のメンドン
写真一覧
薩摩硫黄島のメンドン
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
解説文
薩摩硫黄島のメンドンは,奇怪な容姿を有し,畏くも怖ろしいものとされており,八朔の行事日となる旧暦の8月1日,2日に現れ,人びとの邪気を追い祓う。 1日の夕方,熊野神社前の広場で若者たちが輪になって太鼓踊りを演じていると,突如,拝殿奥から1体のメンドンが走り込んできて,踊り手の周囲を3周し,去っていく。これが終わると,次々とメンドンたちが走ってきては,踊りの邪魔や,飲食に興じる観客たちの中に分け入るなど,悪戯を始める。手には枝葉を携えており,これでしきりに叩く。叩かれると魔が祓われてよいという。こうして,メンドンらは神社を出たり入ったりしながら,せわしく駆け廻るが,翌日の夜中まで所かまわず出没,徘徊している。 翌2日には,叩き出しといって,島を一巡する太鼓踊りがある。このときメンドンは隊列の先頭につくことになっており,所定の場所に到着すると,揃って海に向かって悪いものを追い祓う。こうして,最後は神社に戻って締めの踊りをし,あとは花開きと称する直会となって,行事は終了する。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
硫黄島は、種子島・屋久島地方のうちで、薩摩半島南端から南南西およそ40㎞に位置するが、ここに来訪神に関する行事が伝えられている。この神は、メンドンと呼ばれ、奇怪な容姿を有し、畏くも怖ろしいものとされており、八朔の行事日となる旧暦の8月1日・2日に現れ、人びとの邪気を追い祓う。 硫黄島は、薩摩硫黄島とも呼ばれ、竹島・黒島とともに三島村をなす。集落は1箇所のみで、現人口は約120人、世帯数は約60世帯である。面積は約11・65㎢、周囲を約19・1㎞とし、島全体が火山島であり、主峰の硫黄岳は常時噴煙を上げている。港内では鉄分を含んだ温泉が湧出し、大気との反応で赤く変色しており、島の周辺海域でも硫黄成分による黄色い変色が多々みられる。かつて、硫黄岳では硫黄や珪石の採掘が盛んに行われ、藩政期には重要な貿易品であったが、昭和39年に硫黄採鉱を閉坑、その後しばらく珪石は採掘されていたが、現在ではすべて閉山となっている。主な生業としては、肉牛を中心とする畜産業のほか、島の大半を占める竹林資源を利用したタケノコ生産、広大な椿林を活用して作る椿油と関連の製品加工などがある。また、島の周囲は好漁場で、イセエビ漁などが盛んである。 硫黄島のメンドンは、旧暦の8月1日・2日と2日間にわたって行われる八朔行事に現れ、何やら「恐ろしいもの」とされてきた。事前準備としては面などの仕立てがある。面は、テゴと呼ぶ農作業用の背負籠を本体とし、竹ヒゴを組み込み紙を貼って作るが、これは一四歳になる子が行い、被るものとされており、祖父や父親などに手伝ってもらって1、2ヶ月ほどかけて完成させる。仕上げは、墨を塗って黒の下地とし、そこへ赤で耳・眉は渦巻き模様に、その他には格子模様を入れていく。赤の塗料は、昨今では市販の絵の具を用いることが多いが、以前は赤錆や赤レンガを砕いて作ったという。こうして出来た面は、8月1日の朝、チグサの葉を添えて鎮守の熊野神社に奉納される。なかでも、当日最初に登場するメンは、一番メンといって、14歳のうち最も早く生まれた子が扮することになっており、この面頭にのみ旗が付されている。当地では、行事の担い手の中心となる若者たちのことを二才ともいい、かつては小二才(15~24歳)、二才(25~34歳)、二才頭(35歳)と年齢を基軸とした階梯的な社会集団としていたが、昭和40年代以降の人口減により、今日では一括総称している。つまり、面の作成やメンに扮するのが14歳というのは、これが若者入りを意味する成年戒の1つともなっている。 八朔行事の初日となる8月1日、夕方前の所定の時刻になると、浜辺で潮垢離をとった若者たちが三々五々、庄屋跡あるいは庄屋の庭と称する空地に集まり、太鼓踊りの支度に取りかかる。踊りは現在、若者たち10名ほどによる踊り手と、鉦叩きなどと称する踊りを熟知した年配者一名によって構成されている。踊り手たちは、頃合いを見計らって、庄屋跡で鉦叩きの周りを輪になって廻りながら踊りはじめ、その流れで神社前の宮の馬場と呼ぶ広場へと繰り込んでいく。移動の際は、鉦叩きを先頭に一列に連なり、踊らずに鉦・太鼓の音と掛け声だけで進む。これをミッチキ(道行き)という。そしてこの間、神社拝殿脇では「メンに入る」といって、メンドンに扮する準備があるが、この有様は決して見てはならないとされている。頭にはメンを被り、身には持ち寄った蓑を付け、手袋をはめ、手にはスッベと呼ぶ木の枝葉を携える。踊り手たち一行が宮の馬場に到着すると、そのまま鉦叩きを中心に輪を作り、再度踊りはじめる。ちょうど夕日が差し掛かる頃である。 しばらく踊っていると、突如、メンドンが一体、神社の参道奥から走り込んできて、踊り手の周囲を三周し、特に何もせず再び駆け戻っていく。このメンドンを一番メンという。これが終わると、次第に次々と何体ものメンドンたちが参道奥から走ってきては、踊りの邪魔をしたり、飲食に興じる観客たちの中に分け入るなど、悪戯をはじめ、あたりは笑いと叫びで騒然となっていく。メンドンは人びとを枝葉でしきりに叩くが、叩かれると魔が祓われてよいという。声を掛けたり逆らうことは許されないため、強さのあまり逃げ惑う者もいる。特に、女性は格好の的とされ、よく追い回される。 一番メン以外にも、面隠しといって、四角い紙に天下御免と記し、子供たちが思い思いに描いた面があるが、これは小さな子が被るものであり、メンは多数あって、数は決まっていない。また、メンドンも14歳の子のみならず、踊りに出なかった若者や大人が入ることもあって、一様ではない。こうして、踊りは一時間ほどあって暫時休憩に入るが、この間もメンドンらは神社を出たり入ったりしながら、せわしなく駆け廻り続けている。その後、踊り手たちは締めの踊りを納めて再び庄屋跡へとミッチキをして終了、あとはそれぞれ太鼓を叩きながら家路へと向かう。ただし、メンドンは3日未明まで自由に徘徊してよいことになっており、昨今では翌2日の夕方頃までが専らであるが、かつては深夜であっても人家の中に入り込むなどして大暴れした。女の子のいる家では、娘を押し入れに隠すなどしたともいう。 翌2日は、叩き出しといって、島廻りの太鼓踊りがある。踊り手たちは庄屋跡に集まり、前日と同様にして宮の馬場へと移って踊りを奉納する。暫時休憩ののち、夕暮れを待って所定の道順に従って集落内から外周道へとミッチキしていく。この際もメンドンはうろついており、隊列に付いたり離れたりしている。外周道では所定の場所三箇所にて、海岸から海に向かって島中の悪いものを叩き出し、追い祓うということをする。こうして、最後は神社に戻って締めの踊りをし、前日と同様にして終了とし、あとは花開きと称する直会となって、行事は終了する。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)