国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
村上祭の屋台行事
ふりがな
:
むらかみまつりのやたいぎょうじ
村上祭の屋台行事
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年7月6・7日(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などへご確認ください)
指定証書番号
:
指定年月日
:
2018.03.08(平成30.03.08)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
新潟県
所在地
:
保護団体名
:
村上まつり保存会
村上祭の屋台行事
解説文:
詳細解説
本件は,江戸時代より城下町として栄えてきた村上に伝承されてきた大規模祭礼であり,旧村上城下の総鎮守である西奈彌羽黒神社の例大祭において,神輿の巡行に合わせて19基の屋台,14騎の荒馬,4基の笠鉾等が旧城下を巡行するものである。
6日は宵祭で,各町が屋台や笠鉾を組み立てて自町内を巡行する。7日は本祭で,早朝から各町の屋台,荒馬,笠鉾が神社前に集まった後,順に旧城下を夕方まで巡行する。夕方に神輿が還御すると,荒馬,笠鉾,屋台も自町内に戻るが,その際,屋台は提灯を灯し,賑々しく帰町する。
屋台は,新潟県下越地方によく見られる二層二輪形式で,一層目に囃子方が乗り,二層目に乗せ物と呼ぶ人形類を乗せる。形態は,ニワカ屋台,お囃子屋台,シャギリ屋台の3種があり,ニワカ屋台からお囃子屋台,あるいはニワカ屋台やお囃子屋台からシャギリ屋台へと展開してきたことが知られている。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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村上祭の屋台行事
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村上祭の屋台行事
解説文
本件は,江戸時代より城下町として栄えてきた村上に伝承されてきた大規模祭礼であり,旧村上城下の総鎮守である西奈彌羽黒神社の例大祭において,神輿の巡行に合わせて19基の屋台,14騎の荒馬,4基の笠鉾等が旧城下を巡行するものである。 6日は宵祭で,各町が屋台や笠鉾を組み立てて自町内を巡行する。7日は本祭で,早朝から各町の屋台,荒馬,笠鉾が神社前に集まった後,順に旧城下を夕方まで巡行する。夕方に神輿が還御すると,荒馬,笠鉾,屋台も自町内に戻るが,その際,屋台は提灯を灯し,賑々しく帰町する。 屋台は,新潟県下越地方によく見られる二層二輪形式で,一層目に囃子方が乗り,二層目に乗せ物と呼ぶ人形類を乗せる。形態は,ニワカ屋台,お囃子屋台,シャギリ屋台の3種があり,ニワカ屋台からお囃子屋台,あるいはニワカ屋台やお囃子屋台からシャギリ屋台へと展開してきたことが知られている。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
村上祭の屋台行事は、新潟県村上市羽黒町に鎮座する西奈弥羽黒神社の例大祭で行われる行事で、屋台のほか笠鉾や荒馬が神輿の渡御に供奉して旧村上城下を巡行し、五穀豊穣や家内安全などを祈願する行事である。 村上市は、新潟県最北部、三面川下流に位置し、北東部は朝日連峰を境に山形県と接し、西部は日本海に面する。江戸時代は村上藩の城下町で、山形県庄内地方に通じる出羽街道の基点であり、北前船の寄港地であった岩船港や瀬波港との関係も深く、この地域の政治経済の中心となってきた。 西奈弥羽黒神社は、奈津比売命など三神を祭神とし、村上城のあった臥牛山の中腹に鎮座する。天正16年(1588)に城主の本庄繁長が庄内地方を平定した際、戦勝祈願した羽黒神社を城下の庄内町に勧請したとされ、元和2年(1616)には二代藩主の村上忠勝が社殿を造立して臥牛山麓に遷座し、さらに寛永10年(1633)にも三代藩主の堀直竒が城下を整備して現在地へ遷座したとされる。村上祭はこの寛永10年の遷座の際に行った遷宮祭が始まりとされ、明治5年までは旧暦6月6、7日に行われていた。 行事では各町が屋台や笠鉾を出す。屋台は、大町の人々が城の普請に使った大八車を借りて太鼓を打ち鳴らして練り歩いたのが始まりとも伝えられるが、記録では、七代藩主、松平直矩の寛文7年(1667)の祭礼見物を記した『寛文七丁未日録』にみえる肴町の「鯛車」や上町の「鐘引」がその前身と考えられる。また「しやぎり屋台」の字は、城下の町人、磯部順軒が江戸時代中期に著した『記事別集』の享保19年(1734)の記載に初見し、この頃には今日に類似した形態の屋台が曳きだされていたと考えられる。 屋台は、19基あり、形態からシャギリ屋台、お囃子屋台、ニワカ屋台の3種に分けられる。シャギリ屋台は、11の町が出す。漆塗りに彫刻や金箔を施した豪華絢爛な二層二輪の屋台で、高さは5m前後、漆塗りの車輪は径6尺以上にもなる。上層には乗せ物と呼ぶ人形を乗せ、後部に見送り幕などを飾る。下層では子供が太鼓や鉦を奏する。 お囃子屋台は、6つの町が出す。彫刻を施した白木の二層二輪の屋台で、高さ約5mで、径約6尺の漆塗りの車輪がつく。上層には乗せ物を乗せ、後部に松の枝木を飾ることが多い。下層は前後に仕切られ、前部で子供が鉦や太鼓、鼓を奏し、楽屋と呼ぶ後部で大人が三味線や笛を奏する。 ニワカ屋台は、2つの町が出す。白木の簡素な造りの二層二輪の屋台で、高さは約4・5mで、小ぶりな白木の車輪がつく。上層には乗せ物を乗せ、後部に松の枝木を飾り、下層では子供が太鼓を叩く。三種の屋台は、ニワカ屋台からお囃子屋台へ、あるいはお囃子屋台やニワカ屋台からシャギリ屋台へと展開した例が多い。 笠鉾は、高さ約3mの棒に径4尺前後の傘状の布をつけて能面や瓢箪など7つの飾りを吊るしたもので、屋台を先導する。もとは屋台を出す全町がだしたともいわれるが、現在は6つの町がだす。 荒馬は、神社が最初に勧請された庄内町が出す。町内を14の荒馬組に分け、各組が1騎ずつ、計14騎を出す。荒馬は、本庄繁長の凱旋の様子を模したとされ、『寛文七丁未日録』にすでに記載がある。木製の馬形に布地の胴をつけて背後に馬印と称する旗を立てたもので、10歳前後の男子が着用し、馬に跨った恰好になる。 行事は7月6日の宵祭と7日の本祭からなる。宵祭では、朝から各町が屋台や笠鉾を組み立てて昼過ぎに町内を巡行する。夕方、神社本殿から麓の神輿殿の3基の神輿に三神が遷され、夜は氏子がめいめいに参拝する。 本祭では、午前0時に神輿殿から神社の先太鼓が出発して各町内を巡る。先太鼓が庄内町を通ると、庄内町では笠鉾を先頭に荒馬が一列になって町内を巡行する。巡行中は先頭の荒馬から順に一騎ずつ「いーやへー」と叫んで手綱を引いて轡をカチャカチャ鳴らす。笠鉾と荒馬は巡行を終えると隣接する久保多町に向かう。久保多町も庄内町との境まで屋台を出し、町境で出会うと互いに村上甚句を唄う。その後、庄内町の笠鉾、荒馬、久保多町の屋台の順で神輿殿に向かう。途中、小町坂と呼ぶ坂を上る際は、「小町坂の坂かかり」と称して、屋台は上り下りを2度繰り返して3度目に勢いをつけて上りきる。この頃には東の空が白み、その他の町の笠鉾や屋台も神社に向かう。すべての屋台、笠鉾、荒馬が神輿殿の前に到着すると、神職の祈祷があってから巡行となる。 巡行は、先太鼓を先頭に、庄内町の笠鉾、14騎の荒馬、3基の神輿、19基の屋台と続く。屋台の順番は、久保多町、大町、寺町、大工町、小町、塩町、上町、細工町、安良町、小国町、鍛治町、肴町、長井町、羽黒町、庄内町、片町、上片町、加賀町、泉町と決まっており、上町、小国町、長井町、羽黒町の屋台には笠鉾もつく。なお、安良町の笠鉾は巡行せず町内に飾られる。 屋台は、2本の引綱を引いて左右に蛇行させながらゆっくりと曳行する。曳行には、屋台の手木を操作して蛇行を調整する手木係、車輪の状態を監視する大八車係、屋台上層に乗って乗せ物の管理などをする天上師、事故防止のため屋台の周囲に付いて曳行を指揮する車番などの諸役がある。 囃子は、京都の祇園囃子を模したと伝えられ、巡行中はゆったりした調子、自町に戻る際は軽快な調子で奏される。また途中、男性が村上甚句を高らかに唄う。村上甚句は、巡行中に唄うゆったりした調子の引き唄、屋台停止中に唄う軽快な調子の置き唄がある。 巡行途中、庄内町の御駐輦旅所、片町の庚申堂の御旅所、肴町の御旅所で神職の祈祷がある。夕方、神輿が神社に還御すると、笠鉾と荒馬も町内に戻る。屋台は残って肴町に勢揃いして提灯を取り付け、日が暮れると明かりを灯して「帰り屋台」となって町内に戻る。途中、交差点で方向転換する際は、機動性の高いニワカ屋台は「煽り」と称して上下左右に激しく揺らす。屋台は翌7月8日早朝から解体されて屋台蔵などに収納される。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)