国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
輪島の海女漁の技術
ふりがな
:
わじまのあまりょうのぎじゅつ
輪島の海女漁の技術
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種別1
:
民俗技術
種別2
:
生産・生業
その他参考となるべき事項
:
指定証書番号
:
指定年月日
:
2018.03.08(平成30.03.08)
追加年月日
:
指定基準1
:
(三)地域的特色を示すもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
石川県
所在地
:
保護団体名
:
輪島の海女漁保存振興会
輪島の海女漁の技術
解説文:
詳細解説
輪島の海女については,既に『万葉集』や『今昔物語集』等にその存在が散見され,特に,近世は加賀藩による庇護を受けてきた。また,その技術のあり様は,素潜り漁という比較的簡潔明瞭なものであることから,古態をとどめた伝統的な漁撈と解されている。
主な漁場としては,能登半島沖の舳倉島や七ツ島,嫁礁等がある。漁法には,カチカラ,イソブネ,ノリアイの3種があり,カチカラは海女が直接陸から泳いでいって行うもの,イソブネは夫婦・親子等が船に乗り込み,漁をしている女性を男性が綱で引き上げるといった,役割分担して行うもの,ノリアイは1隻の船に男性の船頭と複数の海女たちが乗り合わせ,目的とする漁場でそれぞれが組になって共同作業で行うものである。漁獲物としては,アワビ・サザエをはじめ,ナマコ,イワガキ,カジメ,イワノリ,ワカメ,テングサ,イシモズク,エゴ等があり,そのため,ほぼ年間をとおして行われているが,10月のみ休漁としている。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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輪島の海女漁の技術
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解説文
輪島の海女については,既に『万葉集』や『今昔物語集』等にその存在が散見され,特に,近世は加賀藩による庇護を受けてきた。また,その技術のあり様は,素潜り漁という比較的簡潔明瞭なものであることから,古態をとどめた伝統的な漁撈と解されている。 主な漁場としては,能登半島沖の舳倉島や七ツ島,嫁礁等がある。漁法には,カチカラ,イソブネ,ノリアイの3種があり,カチカラは海女が直接陸から泳いでいって行うもの,イソブネは夫婦・親子等が船に乗り込み,漁をしている女性を男性が綱で引き上げるといった,役割分担して行うもの,ノリアイは1隻の船に男性の船頭と複数の海女たちが乗り合わせ,目的とする漁場でそれぞれが組になって共同作業で行うものである。漁獲物としては,アワビ・サザエをはじめ,ナマコ,イワガキ,カジメ,イワノリ,ワカメ,テングサ,イシモズク,エゴ等があり,そのため,ほぼ年間をとおして行われているが,10月のみ休漁としている。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)
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詳細解説
輪島の海女漁の技術は、石川県輪島市に伝承される、女性たちによる素潜り漁に関わる漁撈技術である。主として能登半島沖の舳倉島や七ツ島、嫁礁などの地先沿岸を漁場とし、貝藻類などを対象に息をこらえて潜水し、その身ひとつと簡易な道具によって伝統的な採取活動を今に伝えている。 能登のアマ(海人)については『万葉集』や『今昔物語集』などにその記述が散見される。『万葉集』では、大伴家持が当地方のアマを詠じており、沖つ島(舳倉島)に渡って鮑玉を潜り採るとあって、すでに古代にはアマが活動し、能登半島の沖合が真珠の採取地として認知されていたことが窺える。 輪島のアマについては、諸文献によると、16世紀半ばに鐘崎(福岡県宗像市)より能登の諸所へ通い漁をしていたのが端緒で、次第に住み着くようになり、慶安2年(1649)には加賀藩前田家より鳳至町の一画(輪島市海士町)に土地1,000歩を拝領、定着したという経緯を持つ。以来、近世においては藩への熨斗鮑の献上や役銀の納入が義務づけられる一方で、藩からは金銭や米・塩の供給が図られるなど、その維持存続に向け、庇護を受けてきた。 能登半島の沿海は、九州西方沖の黒潮系水塊と東シナ海の沿岸水が混じてなる、いわゆる対馬暖流の恩恵を受けるとともに、その海底地形は本土沿岸から伸びる岩盤質の大陸棚となっており、その延長上に舳倉島や七ツ島、嫁礁などがある。海女漁が行われる舳倉島は、輪島港から北に向かって約50㎞、七ツ島・嫁礁はそのほぼ中間地点に位置するが、これらはそもそも棚上に表出した一角であって、暖流や無数の岩礁など、豊かな自然に恵まれた好漁場となっている。 輪島市では現在、海士町と輪島崎町で海女漁が行われている。海士町の海女は、舳倉島などの島々を巡って漁を行う。一方、輪島崎町の海女は、本土側沿岸を漁場としている。いずれも石川県漁業協同組合輪島支所に所属し、併せて「輪島の海女漁保存振興会」を設けている。その従事者数は、ここ十数年来200名程度で推移しているが、大半は海士町に属する海女である。海士町の海女は「通い海女」と「定住海女」に大別されるが、通い海女は磯入りともいい、輪島港より出港し、漁をしたのち再び輪島港に帰港する者のことで、定住海女は舳倉島に在住または一定期間滞在し、島周辺で漁をする者のことをいう。本来、舳倉島は無人島であり、シマワタリといって、かつて海士町の住民は6月から10月頃までの間、漁を目的に全戸一斉に季節移住していたが、昭和に入ってこの慣行は徐々に変容し、生活様式の変化や漁船の高性能化、定期船の就航あるいはインフラ整備等々によって、やがて昭和30年代を迎え、藩政期以来の慣習はなくなった。通い海女と定住海女の操業形態はこのシマワタリの延長線上にある。 加えて、海女漁を維持存続させてきた背景には、強固な自治組織の存在がある。特に海士町では、当該住民は、漁業規範も含め町全体の意思決定機関である海士町自治会と、その下部組織に位置づけられるアタリ(組割)と呼ぶ血縁的地縁集団に、複層的に所属する。アタリとは、ジカタ(本土側)の現住所に関係なく、舳倉島での居住地を想定したもので、必ずどこかの組に属さねばならず、島を地割りしたうえで、そこに住んでいるとみなされる仕組みである。そして、この社会慣行こそが当地の海女漁を長らく厳格に統率してきた所以ともいえる。実際、海女漁を許可する鑑札は、各個人に対し、自治会が発行している。 漁の規律では、資源保護の観点から制定された明治35年の石川県漁業取締規則(現・漁業調整規則)などがあるが、より厳しい制限を自ら課してきた。特に、半飼育的な漁獲物の温存や自然環境に対する秩序維持の意識は顕著である。たとえば、海士町では現在アワビ・サザエの漁期について、県規則ではアワビが1月から9月、サザエが周年可能とするところ、自主的に7月から9月の3か月に限定しているほか、独自の禁漁区を設けたり、1日の操業時間を9時から13時としたり、その他出漁日数などについても随時協議し、制限を加えている。特に、アワビについては古くより3寸(現在10㎝)以内は採捕禁止との殻長制限を持つ。いかに海女漁を後世に継承すべきかは、その歴史的背景とあいまって、当地にとっては根本的な命題でもあった。 主な漁法としては、カチカラ、イソブネ、ノリアイの3種がある。カチカラは、海女が直接陸から泳いでいって行うもの。イソブネはイソノリともいって、夫婦・親子などが船に乗り込み、漁をしている女性を男性が綱で引き上げるといった、役割分担して行うもの。ノリアイはアイノリとも称するが、一隻の船に船頭(男)と複数の海女たちが乗り合わせ、目的とする漁場でそれぞれが組になって共同作業で行うものである。このうち、イソブネが昨今衰退したなか、ノリアイは盛んである。ノリアイは、昭和30年代にはじめられたもので、通い海女特有の漁法形態でもある。また、収益については漁協を通じ、基本的に個々の当事者が受け取るが、ノリアイに限っては乗り合った人数分で除して均等配分している。漁獲物としては、アワビ・サザエをはじめ、ナマコ、イワガキ、カジメ、イワノリ、ワカメ、テングサ、イシモズク、エゴなどがあり、そのためほぼ年間をとおして行われているが、10月のみ休漁としている。 技術継承のあり方としては、基本的に我が身一つで行うことから、採捕の術や漁場に関する知識は個々で経験し蓄積していくほかない。しかしながら、海女漁は個人の裁量に任されつつも、当地特有の社会性を兼ね備えたものであることから、家族のみならず他者から得る知識も少なくない。採取方法や漁獲の生態、危険察知の仕方など、漁に係る知識は日常的に交換され、実地を伴ってさらに高められていく。たとえば、これには磯笛と称する呼吸の整え方やヨモギによるメガネの曇り止め、耳抜きの仕方、風向きによる天候の読み方などがある。あるいはまた、水中の景観を岩礁の凹凸によってセ・クリ・シマ、海面上の岩の形でツジ、水深のある岩礁海底をハエ・マリアなどと呼び、共通概念として認識してきた。素潜りの水深については、対象となる漁獲物によって異なり一概にはいえないが、アワビやサザエの場合、通い海女がおよそ15mから20mであるのに対し、定住海女は平均10m程度だとされる。1度の潜水時間はおおむね40秒から50秒ほどである。なお、1回の潜水は一カシラといい、これを断続的に繰り返したのち休憩に入る。この休憩までを一シオというが、4時間の操業であれば、大抵、四シオとなる。 主な漁具としては、オービガネ、タライ、サシ、水中メガネなどがある。オービガネはアワビなどを剥がし取る道具である一方、潜水時の重りとしての機能も併せ持つ。長さ3、40㎝、重さ1.2㎏の細長い板状の金属製品で、途中で屈曲し、先端は尖っている。近年は鉄製から錆びにくいステンレス製へと代替しつつある。タライは別にオケ、ハンギリなどともいうが、海面に浮かべ、主として採取物を入れておくが、時折これに摑まって小休止などにも用いる。昨今ではウキワと称し、タイヤチューブなどに網を被せて使う者も少なくない。こうしたオービガネやタライは、かつて当地では嫁入り道具のひとつでもあった。なお、サシはアワビの殻長を測る物差しであり、水中メガネは明治中期より使用され、当初は見えすぎて驚嘆に値したものだという。また、着衣としては、以前はサイジと呼ぶ褌様のものを身に付けていたが、昭和35年頃から40年代にかけ、徐々にウエットスーツへと移行していった。しかし、ウエットスーツの普及は保温性や機能性を高めた反面、収量や作業時間の加増を生み出し、濫獲が危惧されたことから、かえって操業時間を短縮するなど、初期段階では規制の対象となった。同時期に導入された足ヒレもまた同様で、確かに機能性を大きく向上させた用具ではあるが、当初は片足だけの使用に限定するなど、制限を設けた時期もあって、必ずしも一変していったわけではない。 関連習俗としては、好漁や魔除けを願う呪いに、カネウチといって、潜水直前に船縁などをオービガネで2、3回叩くということがある。また、当地特有の魔除けの印として、オービガネには通常「大」の字を彫り込んでいる。関連して、そもそもオービガネは前田利長公より賜ったものとの口頭伝承も付随する。輪島の海女たちは、海藻採取の際など、その作業に必要のないときであっても、海に潜るときにはこれを腰に差して携帯するものであり、このことはオービガネが単なる道具としてではなく、精神的支柱かつ象徴的な用具として認識されていることを意味している。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)