国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
間々田のじゃがまいた
ふりがな
:
ままだのじゃがまいた
間々田のじゃがまいた
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
生産・生業
その他参考となるべき事項
:
公開期日:毎年5月5日(指定当時:お出かけの際は該当の市町村教育委員会に問い合わせください)
※本件は平成23年3月9日に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されている。
指定証書番号
:
507
指定年月日
:
2019.03.28(平成31.03.28)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
栃木県
所在地
:
保護団体名
:
間々田のじゃがまいた保存会
間々田のじゃがまいた
解説文:
詳細解説
本件は,栃木県小山市間々田に伝承される蛇祭りで,稲藁や藤蔓,シダなどを材料として作った蛇体を担いで地区内を練り歩き,疫病退散や五穀豊穣,雨乞いなど除災招福が祈願される。蛇体はジャと呼ばれ,7つの町内が1体ずつ作る。当日は,各町内で,蛇よせと称し,蛇体を担いで「ジャーガマイタ,ジャガマイタ」と囃したてながら間々田八幡宮へと向かう。7つの蛇が集結すると,蛇あげといって1体ずつ社殿までの階段を威勢よく担ぎあげて上り,拝殿前で祈祷を受ける。次いで,境内の弁天池に移動し,池に入って蛇体を練り廻ったり,水呑みと称して水を飲ませる所作をしたりする。その後,ジャは再び担がれて各町内へと戻り,練り歩きが行われる。練り歩きの道中では,ジャの来訪を希望する家々に立ち寄り,玄関先にジャの頭を差し込むこともある。また,蛇もみといって,所定の場所でとぐろを巻いて練ったりもする。このようにして町内を巡り終えると,ジャは切断するなどして処分される。かつては,村境に捨てたり,川に流したりしており,蛇体に災厄を託して送る心意がうかがわれる。(解説は指定当時のものです)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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間々田のじゃがまいた
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間々田のじゃがまいた
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間々田のじゃがまいた
解説文
本件は,栃木県小山市間々田に伝承される蛇祭りで,稲藁や藤蔓,シダなどを材料として作った蛇体を担いで地区内を練り歩き,疫病退散や五穀豊穣,雨乞いなど除災招福が祈願される。蛇体はジャと呼ばれ,7つの町内が1体ずつ作る。当日は,各町内で,蛇よせと称し,蛇体を担いで「ジャーガマイタ,ジャガマイタ」と囃したてながら間々田八幡宮へと向かう。7つの蛇が集結すると,蛇あげといって1体ずつ社殿までの階段を威勢よく担ぎあげて上り,拝殿前で祈祷を受ける。次いで,境内の弁天池に移動し,池に入って蛇体を練り廻ったり,水呑みと称して水を飲ませる所作をしたりする。その後,ジャは再び担がれて各町内へと戻り,練り歩きが行われる。練り歩きの道中では,ジャの来訪を希望する家々に立ち寄り,玄関先にジャの頭を差し込むこともある。また,蛇もみといって,所定の場所でとぐろを巻いて練ったりもする。このようにして町内を巡り終えると,ジャは切断するなどして処分される。かつては,村境に捨てたり,川に流したりしており,蛇体に災厄を託して送る心意がうかがわれる。(解説は指定当時のものです)
詳細解説▶
詳細解説
間々田のじゃがまいたは、栃木県小山市間々田に伝承される蛇祭りで、稲藁やシダ・藤蔓などで作った大きな蛇体を担いで練り歩き、疫病退散をはじめ、五穀豊穣や雨乞いなど、除災招福を願う祭礼行事である。 間々田地区は、栃木県小山市の南端にあり、市域のほぼ中央を南流する思川東岸の洪積台地上に展開する。近世において、その中心街は江戸日本橋から数え、日光街道11番目の宿場町となっており、加えて町並みの西南には乙女河岸を擁したことから、様々な物資が江戸川や利根川、渡良瀬川から思川を抜けて、ここで陸揚げ・集積された。間々田は、陸運・舟運双方によって栄えた関東北部における交通の要衝の地であった。一方、町街周辺ではその地理的環境に準じ、麦や蔬菜などの畑作農業が盛んで、農産物の集散地ともなっていた。近代以降は明治27年の東北本線間々田駅の開設をはじめ、近年の新たな宅地開発などによって人口の増加地域となっており、首都圏のベッドタウン・商業都市化の両面から急速な発展をみせつつある。 当該行事を継承する旧宿場町・間々田では、7つの町内がそれぞれにジャと呼ぶ蛇体を作って一つの祭礼行事を構成している。間々田一丁目から六丁目までの各町内と長者町の計7町内が参加し、実施しているが、かつては町街を南北に二分し、上と下とで蛇体を1体ずつ作って行っていた。それが明治期以降、住民の増加もあって各町内に分かれて行うようになり、現在に至っている。実施日としては、以前は旧暦4月8日に行われていたが、昭和40年代後半からは現在の5月5日をその日とするようになった。なお、この祭礼行事が「じゃがまいた」と呼ばれる所以は、ジャを担ぐ際の掛け声に端を発すると考えられるが、その意味内容は定かではないものの、伝承によれば「蛇が参った」もしくは「蛇が巻いた」の転訛だと伝えている。 蛇体の製作では、竹や藁、シダなどの植物素材を主たる材料としている。割り込みを入れた真竹を芯とし、藁束や縄を巻き込んで太くしたものであるが、胴体部は尾に向かって次第に細くさせ、その先端にはシリケン(尻剣)と呼ぶ板状の剣を連接しておく。また、頭部は籠を利用したり、竹を編むなどして拵え、金紙・銀紙や綿で作った目鼻や歯、アワビの貝殻の耳、木の枝や竹などで作った角や髭、厚紙を赤く塗った舌などを取り付ける。おおむね、ここまでが準備段階の作業となるが、こうしてできたジャは全長約15mにおよぶ。そして、5月5日当日を迎え、早朝から各町内で蛇体の総仕上げがはじまる。このことは、コケラ巻きと呼んでいて、蛇体にシダや藤蔓を覆うようにして巻き付け飾っていき、最後に腹帯と称する布を下面に這わせ、括り付ける。腹帯の色は町内ごとに、一丁目が緑、二丁目が黄、三丁目が白、四丁目が赤、五丁目が青、六丁目が桃、長者町が紺と定められており、これらは担い手の鉢巻その他にも反映され、識別できるようになっている。なお、コケラというのは、ジャに用いるシダの地元呼称であり、昨今では入手し難くなってきたこともあって、素材確保のため自主栽培も行っている。 蛇体が完成すると、各町内では蛇よせと称し、午前10時の煙火の合図を目安に、作ったジャを担いで「ジャーガマイタ、ジャガマイタ」と大きな掛け声を発しながら、地域の鎮守社である間々田八幡宮へと向かう。蛇体の担ぎ手は、かつては昼間が子どもたちで、夜になると若者たちに取って代わり、町内を勇壮に担ぎ廻ったというが、昭和50年頃より風紀上の理由や自治会の主導もあって、現今のように大人も子どもたちも混在・併存するようになった。八幡宮の境内では、7つの蛇体がいったん集結したのち、蛇あげといって、1体ずつ社殿までの階段を威勢よく担ぎあげて上り、拝殿前にて並列すると、ジャの口に御神酒を注いでいただき、祈祷を受ける。次いで、蛇体は境内にある弁天池に順次移動し、水呑みと称して、水を飲ませる所作がある。蛇体の頭を池の水に浸して勢いよく持ち上げると、ジャの口からは水が流れ落ち、ほとばしる。そして続けざま、この際には町内の任意で、担ぎ手が皆して蛇体ごと池に入って練り廻ったりもする。 この後、蛇体は各町内へと再び担がれて戻っていくこととなり、午後は練り歩きが行事の中心となる。「ジャーガマイタ、ジャガマイタ」の掛け声とともに、ジャを担いでそれぞれの町内を日が暮れるまで練り歩く。これには厄払いの意味があるとされるが、その一方で昨今では少なくなりつつあるも、この日は各家でも門口や軒先に藤蔓やショウブ、ヨモギなど香りの強い草木を厄除けのために吊り下げる風習がみられる。練り歩きは、いくつかの所定の場所で休憩を取りつつ、延々と町内を巡廻するかたちとなっているが、蛇の来訪を希望する家々に立ち寄る場合は、玄関先にジャの頭を差し込んだりもする。これは悪疫や災厄を追い祓うためとされているが、今日では家屋の構造上、それが適わないことも少なくない。かつては家ぬけと称し、病人などのいる家では屋内にジャが入り込み、表口から裏口へと通り抜けるなどしていたという。また、練りの途次では、蛇もみといって、所定の場所でとぐろを巻いて練ったりもするが、偶然にもジャ同士が出会うと、2体を絡ませるようにして円弧を描き、激しくもみ合うこともある。こうして、それぞれの町内を巡り、使命を果たした蛇体は、切断するなどして即処分される。かつてはムラ境に捨てたり、川に流すなどしていたが、昨今では廃棄処分の対象となっている。その方法に変化はみられるものの、ジャに託して悪しきものを送るという考えが根底にあると窺え、地区内から一刻も早く排除すべきものとして捉えられている。 (解説は指定当時のものです)