国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
石鎚黒茶の製造技術
ふりがな
:
いしづちくろちゃのせいぞうぎじゅつ
石鎚黒茶の製造技術(蒸した茶葉)
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種別1
:
民俗技術
種別2
:
生産・生業
その他参考となるべき事項
:
指定証書番号
:
529
指定年月日
:
2023.03.22(令和5.03.22)
追加年月日
:
指定基準1
:
指定基準2
:
指定基準3
:
(三)地域的特色を示すもの
所在都道府県、地域
:
愛媛県
所在地
:
愛媛県西条市
保護団体名
:
石鎚黒茶製造技術保存会
石鎚黒茶の製造技術(蒸した茶葉)
解説文:
詳細解説
石鎚黒茶の製造技術は、西日本最高峰の 石鎚山の山中において、古くから伝承されてきた発酵茶を製造する技術である。愛媛県西条市小松町の石鎚地区で行われてきたもので、現在は、石鎚黒茶製造技術保存会によってその技術が継承されている。
石鎚黒茶は、独特の発酵製法で黒い茶葉に仕上げることから、その名称で呼ばれている。おもに7、8月の期間に製造され、摘採 、殺青、カビ付け、揉捻、漬け込み、乾燥、選別の各工程がある。発酵に適した冷涼な山中の建物に茶葉を運び込み、二段階に分けて自然発酵させる。発酵させた茶葉は、天日干しにしてから選別し、完成となる。
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
写真一覧
石鎚黒茶の製造技術(蒸した茶葉)
石鎚黒茶の製造技術(茶葉の天日干し)
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石鎚黒茶の製造技術(蒸した茶葉)
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石鎚黒茶の製造技術(茶葉の天日干し)
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解説文
石鎚黒茶の製造技術は、西日本最高峰の 石鎚山の山中において、古くから伝承されてきた発酵茶を製造する技術である。愛媛県西条市小松町の石鎚地区で行われてきたもので、現在は、石鎚黒茶製造技術保存会によってその技術が継承されている。 石鎚黒茶は、独特の発酵製法で黒い茶葉に仕上げることから、その名称で呼ばれている。おもに7、8月の期間に製造され、摘採 、殺青、カビ付け、揉捻、漬け込み、乾燥、選別の各工程がある。発酵に適した冷涼な山中の建物に茶葉を運び込み、二段階に分けて自然発酵させる。発酵させた茶葉は、天日干しにしてから選別し、完成となる。
詳細解説▶
詳細解説
石鎚黒茶の製造技術は、四国山地に属する西日本最高峰の石鎚山の山中において、古くから伝承されてきた発酵茶の製造技術である。その製造技術は、愛媛県西条市小松町の石鎚地区に伝わったものである。 西条市は、愛媛県東部の東予地方に位置する。標高1,982メートルの石鎚山を背にし、瀬戸内海の燧灘に面した地方都市である。南部一帯と西部は急峻な山岳地帯であり、そのほかの地域は、瀬戸内海に面した平地部に農地や市街地が集中する。西条市は、平成16年(2004)に旧西条市と東予市、小松町、丹原町の2市2町が合併して発足した。このうちの旧西条市と小松町は、江戸時代にそれぞれ西条藩と小松藩の陣屋が置かれた場所で、陣屋町として交通・交易の要衝として栄えてきた。 石鎚黒茶の製造技術を伝えてきた同市の石鎚地区は、石鎚山の最奥に位置し、かつては21集落からなる山村であった。生業は、主に林業や畑作、狩猟が営まれていた。一説には、7世紀に役行者による石鎚山の開山によって拓かれた村と伝えており、このほかにも弘法大師や平家落人の伝説が語り伝えられ、これらの外来者によって製茶技術がもたらされたとも伝えている。石鎚地区は、江戸時代には小松藩に属して千足山村と称し、戦後の昭和26年(1951)に石鎚村と改められた。その後の高度経済成長期には過疎化が進み、平成末期には無住となった。これに先立ち、石鎚黒茶の製造技術の保護活動が住民を交えて進められたことで、現在では、同市内の平地部に作業拠点を移し、石鎚黒茶製造技術保存会がその技術を伝承するに至っている。 石鎚黒茶は、農家が自給や現金収入のために生産してきた発酵茶である。四国山地は、希少な発酵茶の製造技術が伝承されており、このほかにも徳島県の阿波晩茶や高知県の碁石茶が知られている。これらの発酵茶は、後発酵茶の一種に分類される。すなわち、発酵茶の多くは熱処理をせずに自然発酵させるが、四国山地の発酵茶は、熱処理をして茶葉の酸化を抑えた後で自然発酵させる茶である。なかでも石鎚黒茶は、二段階で発酵させるのが特徴である。その名称については、独特の発酵製法で黒い茶葉に仕上がることから「黒茶」の名が定着している。 石鎚黒茶の由来については、江戸時代には小松藩の仲買人を通じて瀬戸内の網元が大量に黒茶を買い付けていたと伝えている。このことから、すでに江戸時代には黒茶が生産されていたとも考えられる。一方で、文献資料に記述が散見するのは近代以降のことである。その一つである明治17年(1884)に記された『伊豫國周布郡地誌』からは、石鎚地区が茶の産地として多くの黒茶を生産していたことが分かる。その最盛期は、明治から大正期にかけての時代である。出荷先は、旧讃岐街道沿いでは現在の西条市小松や氷見の問屋のほかに、越智郡や今治市などの沿岸地域に多くみられ、この方面の漁師が好んで飲用したと伝わっている。昭和期に入ると、石鎚地区でも緑茶の生産が本格化して黒茶離れが加速するが、同地区の中村集落では、平成15年まで黒茶が生産され続けてきた。 石鎚黒茶の用途は、自家用としては、おもに日常的に飲用する茶であった。飲用では、囲炉裏の自在鉤に掛けた鑵子(茶釜)から淹れて飲まれた。当時は雑穀食が中心だったので、食事に茶が不可欠で、流し込むように飲まれていた。また、盆に新茶ができると、まず仏壇に供え、その後は一年かけて飲まれた。なかでも、新茶は最も香り高く次第に味が失われるため、次の新茶ができるまでに飲み切るようにされた。一方で、飲用以外の用途は少ないが、飲み切れなかった黒茶があれば、肥料として畑に撒くこともあった。また、赤ん坊のおむつかぶれを防ぐため、おむつに黒茶を浸して着せるような使い方もされていた。 石鎚黒茶は、おもに7、8月の期間に、摘採、殺青、カビ付け、揉捻、漬け込み、乾燥、選別の工程で製造される。茶樹の品種は、ヤマチャと呼ばれる在来種やヤブキタなどである。摘採の茶摘みでは、茶畑で夏季まで十分に成長した茶葉を、鋏などを使って枝ごと切り採る。茶葉は作業所に運び込み、枝を切りそろえて洗浄した後、次に、布袋に入れて蒸し器で蒸す。このように蒸し器で加熱して殺青することで、茶葉の酸化作用を抑える効果がある。また、蒸し上がった茶葉は、煮え湯や水をかけて乾燥しないようにする。茶葉が蒸し上がると褐色に変色して柔らかくなるので、この時に蒸した枝を取り除く。 次に、蒸した茶葉を専用の木箱に詰めて、カビ付けと呼ばれる自然発酵により一次発酵を行う。このカビ付けでは、茶葉に通気性をもたせるため、茶葉の分量は木箱の半分から8割程度に抑えて詰める。そして、茶葉を木箱ごと発酵に適した冷涼な山間の建物に運び込み、白カビと呼ばれる糸状菌によって数日間で発酵を行う。発酵を促すために木箱は綿布などで覆い、茶葉の温度を調整する。このカビ付けは重要な工程の一つとされ、これによって茶の味が決まるとされる。カビ付けが終わった茶葉は、揉捻のために台に広げ、洗濯板で手揉みする。この手揉み作業は、茶葉が発酵して温かいうちに手早く終えるのが良いとされる。また、揉みすぎて茶葉が傷まないように軽めに揉んだ後で、すぐに茶葉を桶に詰めていく。このとき、桶に一人が入って両足で茶葉を踏み込んで空気を抜き、茶葉が酸化しないようにしておく。次に、桶に蓋をした上に重石をして、約2週間を目安に漬け込み、乳酸菌によって二次発酵させる。 発酵させた茶葉は、梅雨が明けた晴天の日を選び、乾燥のために天日干しにする。干し場には茣蓙や簾を敷き、その上に茶葉をほぐし広げて乾燥させる。この乾燥の工程では、粗干しと本干しの二段階に分けて行い、茶葉の乾燥状態を見ながら数日間干す。そのときの天候が、茶の出来の善し悪しに大きく影響する。干し上がりが良いと茶葉が黒く仕上がるが、発酵が不十分だと変色した「朽ち茶」になる。この「朽ち茶」や枝などの異物が混入するので、選別して取り除く。最後に、茶葉を袋詰めにして完成する。