国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
片品の猿追い祭
ふりがな
:
かたしなのさるおいまつり
片品の猿追い祭
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年旧暦9月の中の申の日(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などへご確認ください)
※この行事は、昭和53年3月25日に「片品の猿祭」として記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されている。
指定証書番号
:
1
指定年月日
:
2000.12.27(平成12.12.27)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
群馬県
所在地
:
保護団体名
:
猿追い祭保存会
片品の猿追い祭
解説文:
詳細解説
片品の猿追い祭は、花咲を東西に分けて行われ、東日本には数少ない宮座組織を有する祭りとして、また幣束を持つ猿役が登場する祭りとして知られているものである。サカバン、ヒツバンなどの当番を決め、ヒツバンによる赤飯の投げ合い、東ザシキと西ザシキによる謡などがあり、最後に白装束の猿役がサカバンとヒツバンに追われながら社殿を3回まわる。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
写真一覧
片品の猿追い祭
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片品の猿追い祭
解説文
片品の猿追い祭は、花咲を東西に分けて行われ、東日本には数少ない宮座組織を有する祭りとして、また幣束を持つ猿役が登場する祭りとして知られているものである。サカバン、ヒツバンなどの当番を決め、ヒツバンによる赤飯の投げ合い、東ザシキと西ザシキによる謡などがあり、最後に白装束の猿役がサカバンとヒツバンに追われながら社殿を3回まわる。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
片品村は、群馬県の東北端に位置し、北は新潟県、福島県、東は栃木県に接する。大字の花咲は、片品村の南西端、武尊山と赤倉山の山麓にある懐の深い山村で、鍛冶屋、山崎、登戸、栃久保、栗生、針山の6つの集落からなる。戦前には炭焼きなどの山林業も盛んであった畑作優越地帯である。 この片品村花咲に鎮座する武尊神社は、日本武尊を祭神として祀っている。ここで毎年旧暦9月の中の申の日に猿追い祭が行われる。この猿追い祭は、花咲を東西に分けて行われ、東日本には数少ない宮座組織を有する祭りとして、また幣束を持つ猿役が登場する祭りとして知られている。行事には花咲の6つの集落が参加するが、針山と栗生は客分という立場で参加している。 行事にはサカバン、ヒツバンと呼ばれる当番がある。サカバンとヒツバンは、各集落の各組からそれぞれまわり番で選ばれ、各組を代表して祭りに参加する。その選び方は組によって異なるが、サカバンとヒツバンを別々に一年交代のまわり番でつとめる組が多い。 サカバンは甘酒を作り、ヒツバンは赤飯を作る。その材料は、以前は組内の各家から集めていたが、現在では番に当たった家が自分の家で米や小豆を用意して作っている組が多い。登戸上組では現在でもヒツゴメとして糯米を各家から茶碗に一杯ずつ集めている。祭りの日、各集落のサカバンは甘酒を一升瓶に詰め、ヒツバンはお櫃に赤飯を入れ、風呂敷に包んで神社に持って行き、701数基ある石祠にそれぞれ供える。赤飯は半紙などに包んでゴフウとして参詣者にも配り、甘酒も同様に参詣者にふるまう。残った赤飯は、赤飯を投げ合う行事のためにとっておく。 神事に続いて、お櫃を包んできた風呂敷でほおかぶりをした、東の鍛冶屋と山崎、西の栃久保と登戸それぞれのヒツバンが、拝殿の前に一列に向き合って並び、杓文字で赤飯を投げ合う行事が始まる。まず、東がエッチョと赤飯を投げると、次には西がモッチョといいながら、交互に赤飯がなくなるまで繰り返す。 赤飯投げが済むと、ヒツバン、サカバンたちは、中央に土間があって2つに分かれている割り拝殿と呼ばれる拝殿に上がり、東と西の座に分かれて座る。向かって右が東、左が西になる。この座はザシキと呼ばれ、東のザシキには鍛冶屋、山崎、西のザシキには登戸、栃久保、栗生、針山のそれぞれサカバン、ヒツバン、氏子総代、客人が座る。現在ではそれぞれテーブルを中心に丸く座り、座順もあまり意識しないで座っているが、このザシキの座順は、以前には厳格に守られていた。 東と西にそれぞれ客人のジュウニザシキがあり、ここには客人のみが、集落順に、さらにイッケ順に並んで座った。東は西向きに、後鍛冶屋横丁組(星野イッケ)、後鍛冶屋前組(上組)の星野イッケ、前鍛冶屋組(星野イッケ)、山崎下組(星野イッケ)、山崎中組(星野イッケ)、山崎上組(井上・高山イッケ)、西は南向きに、栃久保(2つの佐藤イッケと戸丸イッケ)、登戸(藤井イッケ、戸丸イッケ、星野イッケ)の順に座った。以上の12のイッケからそれぞれ2人ずつ客人が選ばれ、客人全員が着座しないと祭りが始まらないといわれていた。 このジュウニザシキについては、花咲へ定住した順にザシキが決められたともいわれている。このようなザシキの決まりは、現在ではくずれてきており、客人もイッケの代表ではなく、招待された議員や各種団体役員をさすようになっている。 参加者全員がザシキに座ると、東ザシキと西ザシキの人が交互に挨拶をかわし謡が始まる。東からうたい始め、ついで西がうたう形でうたい、1曲うたう間に酒を1升飲むといい、時間がかかるものである。最後の「千秋楽」が始まるとすぐに、本殿の奥に潜んでいた白装束の猿役が、三角に折った半紙を神主にくわえさせてもらい、大きな幣束を手渡されて外へ駆け出し、社殿を右回りに3回まわる。猿が駆け出すと、東西のヒツバン、サカバンも猿を追って外へ駆け出し、無言で一緒に走るが、このとき猿を追い越すと「その年は陽気が悪い」、つまり不作になるといわれ、猿を追い越すことは絶対にしない。 この猿の役をつとめられるのは、東ザシキの鍛冶屋と山崎の福泉寺組の星野姓の家だけに限られている。これは現在も守られており、猿の役は鍛冶屋、山崎という2つの集落に住んでいることと、星野姓の家であるという2つの要件が満たされなければつとめられないことになっている。つとめる番は、鍛冶屋の横丁組、上組、下組、山崎の福泉寺組の順にそれぞれ1年ずつつとめることになっており、当番に当たった組のサカバンが猿に扮する。猿が走ることを「猿が飛ぶ」といい、なるべく若い人が扮することになっている。 上州武尊山北麓の利根郡片品村では、花咲以外にも上幡谷と戸倉で猿祭を行っている。こちらも旧暦9月の申の日を祭日とするものの、由来・内容等に相違も認められ、花咲のような宮座組織はみられない。 この行事は、花咲を東西に分けて行われ、赤飯を振りかけ合う風や御幣を持って猿に扮する者を追いかける等の古態を伝えており、東日本には数少ない宮座の祭祀組織を残している。猿祭の典型的なものとして地域的特色が豊かであるのにくわえ、猿祭の意義を理解する上でも重要である。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)