国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
気多の鵜祭の習俗
ふりがな
:
けたのうまつりのしゅうぞく
気多の鵜祭の習俗(鵜浦町を出発)
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年12月16日(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
指定証書番号
:
1
指定年月日
:
2000.12.27(平成12.12.27)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
石川県
所在地
:
保護団体名
:
気多大社、鵜浦町会
気多の鵜祭の習俗(鵜浦町を出発)
解説文:
詳細解説
この行事は、能登半島に鎮座する気多大社で行われる行事で、鵜捕部という特殊な祭祀集団により行われる。七尾市鵜浦町鹿渡島から運ばれてきた鵜を神前で放し、とまると取り押さえて海岸で空に放つものである。この神前で放され、とまるまでの鵜の動きで豊凶を占うほか、道中、鵜の羽の色や動きで豊凶や天候も占うこともある。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
写真一覧
気多の鵜祭の習俗(鵜浦町を出発)
気多の鵜祭の習俗(七尾市街地へ)
気多の鵜祭の習俗(七尾市街地)
気多の鵜祭の習俗(大手町さたみや旅館)
気多の鵜祭の習俗(能登生國玉比古神社)
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気多の鵜祭の習俗
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気多の鵜祭の習俗
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気多の鵜祭の習俗
解説文
この行事は、能登半島に鎮座する気多大社で行われる行事で、鵜捕部という特殊な祭祀集団により行われる。七尾市鵜浦町鹿渡島から運ばれてきた鵜を神前で放し、とまると取り押さえて海岸で空に放つものである。この神前で放され、とまるまでの鵜の動きで豊凶を占うほか、道中、鵜の羽の色や動きで豊凶や天候も占うこともある。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
羽咋市は能登半島に位置する。市内寺家町に海に向かって鎮座するのが気多神社である。鵜祭は12月16日午前3時から気多神社(現気多大社)で行われる。七尾市鵜浦から3人の鵜捕部が徒歩で運んできた、捕らえたての生きた鵜を神前で放し、案上にとまるとすぐに取り押さえ、神社前の海岸に運んで真っ暗な空に放つものである。神前で案上にとまるまでの鵜の動きによって古老が来るべき年の豊凶を占う。 鵜は、祭日の前に七尾市の鵜浦町の鹿渡島で捕らえられる。鹿渡島は七尾市北端の崎山半島の先端部に位置し、ここにある鵜捕り崖で、鹿渡島に住む鵜捕主任の小西家によって捕らえられる。捕まえられた鵜は、同じく鹿渡島に住む20戸の鵜捕部の人たちが毎年3戸ずつ当番で気多神社まで運ぶ。道中は、七尾市内での宿泊が2泊から1泊になり、宿も変わってはいるが、歩く道筋はほぼ古くからの通りである。 鵜浦町は鹿渡島・川尻・中浦・山崎から成り立っている。鹿渡島の先端は観音崎といわれ、東は富山湾、西は七尾湾に臨んでいる。観音崎には能登観音崎灯台があり、鵜捕り崖はこの灯台の下の富山湾側に面して位置し、幅約50㎝の鵜休み台が造られている。ここで小西氏が鵜を捕ることになっている。鵜休み台は、11月初め頃に鵜捕部の一員である行長氏が、山づくりといって雑木や雑草などを切り払って手入れをしている。12月12日には鵜を持って鹿渡島を出発することに決まっているので、8日か9日頃になると、その年の当番に当たっている鵜捕部3人が、神酒と茅で編んだ高さ、径ともに1尺8寸の籠を持って小西家に行き、鵜を捕らえることを依頼する。その後小西家では鵜捕り崖に行き、神酒と御花米を供えてから鵜を捕るが、鵜捕り崖は神聖な場所とされ、女性が近寄ることは禁止されている。捕らえられた鵜は鵜様と呼ばれ、小西家では茅の籠に入れるとすぐに当番の家に届ける。鵜を預かる家は、3軒の当番の中から、昼間人が家にいることなどを条件に決める。鵜が届けられると、当番の家では出発の日まで座敷のネカギ(自在鈎)に鵜を入れた籠をかけておく。 当番の鵜捕部3人は12日早朝未明に、1人が御幣をつけ鵜を入れた籠を背負い、2人はこれに付き添って鹿渡島を出発する。当番の鵜捕部は合羽に長靴ばきで、合羽の上には、気多神社から出発の前日までに届けられる素袍を着て、頭には烏帽子をかぶる。出発するときには、鵜田の近くの田の真ん中に祀られている宮塚を拝んでから出かけることになっている。気多神社までの道中の1日目と2日目の昼過ぎまでは七尾市内を歩き、2日目昼過ぎに鹿島町を経て鳥屋町に入る。2日目は鳥屋町で泊まり、翌3日目は鹿西町を経て羽咋市に入り、気多神社に到着する。 1日目は鹿渡島を出ると、川尻から崎山川を渡って中浦に入り、さらに市内部を「鵜捕部、鵜捕部」と連呼しながらまわる。この日の昼食は市内西町の春成酒造店でとる習わしで、ここに到着すると同時に、鵜を入れた籠の御幣も新しいものと取り替える。午後は再び市内をまわり、夜はさたみや旅館に泊まる。以前はさたみや旅館ではなく、えびす屋、大津屋などの篤志の宿に泊まっていたという。 翌、13日午前中は七尾市内をまわり、昼前に市内所口町の気多本宮社に着き新嘗祭に参加する。気多本宮社では鹿渡島の鵜が出ないと新嘗祭ができないとされ、お祓いを受けた後、気多本宮社の祭に参加する。ここで鵜の入った籠にさらに御幣をつけ、昼食を食べてから出発し、能登街道を南下して鹿島郡に入る。鹿島町を経て鳥屋町に入り、この日は同町良川の鵜家家で泊まる。鵜家家は代々宿を引き受けてくれており、鵜には邑知潟の寒鮒を食べさせてくれる習わしである。鵜家家には宿代を払わず、気持ちだけの謝礼をおいてくることになっている。 14日は鳥屋町から鹿西町に入り、金丸神社(宿那彦神像石神社)の梶井宮司宅でお祓いを受けた後、昼食をとって出発する。また金丸には鵜休み石があり、この石に鵜の入った籠をのせて休むことになっている。ここを出ると夕方までに気多神社に到着する。神社に到着してからは、餌止で鵜には餌を与えない。 道中は、「鵜捕部、鵜捕部」と大声で呼びながら歩いてくるので、鵜捕部が通りかかると、鵜様といって賽銭をあげて鵜を拝む年寄りたちもいる。また、鵜様の入った籠に耳をあてると耳が聞こえるようになるとか、鵜の羽の色で天候を占うこともあり、鵜様の色が青いと雨が多い、白いと雪が多いとか夏は晴れるとかいう。 気多神社に着くと、八神式、寝覚の神楽が行われ、次いで禰宜と鵜捕部との間で問答が行われて、鵜が放たれ、とまったところで捕まえて海岸まで運んで暗闇の空に放つ。その後、神楽が行われ、直会があって終了する。 なお、鵜捕部は、鵜田という共有田も所有し、4戸年番で耕作する。鵜田の収穫は4戸で分けるほか、初穂料として気多神社にも納める。 この行事は、鵜捕部という特殊な祭祀集団により行われ、鵜の羽の色や動きで豊凶や天候を占うものであり、石川県内でも類例がないものとして重要である。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)