国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
八戸三社大祭の山車行事
ふりがな
:
はちのへさんしゃたいさいのだしぎょうじ
八戸三社大祭
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年8月1~3日(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などへご確認ください)
※この行事は平成28年に「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産代表一覧表に記載されている
指定証書番号
:
391
指定年月日
:
2004.02.06(平成16.02.06)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
青森県
所在地
:
保護団体名
:
八戸三社大祭山車祭り行事保存会
八戸三社大祭
解説文:
詳細解説
八戸三社大祭の山車行事は、八戸市内に所在する龗神社、新羅神社、神明宮の三社の合同例祭に合わせて、8月1日から3日間行われる行事で、三社の神幸行列に従って27台の大型で豪華な風流系の山車が行列を組んで市内を巡行する。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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八戸三社大祭
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八戸三社大祭
解説文
八戸三社大祭の山車行事は、八戸市内に所在する龗神社、新羅神社、神明宮の三社の合同例祭に合わせて、8月1日から3日間行われる行事で、三社の神幸行列に従って27台の大型で豪華な風流系の山車が行列を組んで市内を巡行する。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)
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詳細解説
八戸三社大祭は、八戸市内に所在する龗神社、新羅神社、神明宮の三社の合同例祭で、毎年7月31日から8月4日にわたって行われる。山車行事は、この例祭に合わせて、8月1日から3日間行われ、三社の神幸行列に従って27台の大型で豪華な風流系の山車が行列を組んで市内を巡行する。 三社大祭は、龗神社の祭礼から始まったとされる。龗神社は、旧八戸城内に鎮座し旧社名を法龗神社、法龗大明神などと呼ばれ、初めは柏崎村の産土神であったが、盛岡藩の代官所が置かれると「八戸御館神」と称され、さらに寛文4年(1664)の八戸藩誕生以後は、藩と城下町を鎮護する神として信仰されるようになった。 龗神社の神輿が現在の新羅神社である長者山虚空蔵堂を御旅所にして渡御し、城下を神幸するようになるのは享保6年(1721)のことで、その後明治3年(1870)、法龗大明神は龗神社と社名を改め、明治17年(1884)の祭礼から新羅神社が加わって二社の合同祭礼となり、同22年(1889)の祭礼からは神明宮も加わって、現在の三社大祭のかたちとなった。 現在の三社の氏子範囲は、龗神社が市内北部の20町内、新羅神社が市内南部の20町内、神明宮が中央部の12町内となっており、祭礼は町内を単位に行われている。 三社大祭の行列は、神明宮、龗神社、新羅神社の三社がそれぞれ一団となり、各社ごとに大麻神職、副齋主、祭主、神輿が行列の要となって、前後に氏子、武者押し、旗差物、稚児行列などの行列や、神楽、獅子舞、虎舞などの民俗芸能と、附祭りとして山車群が付き、最後に芸妓連による華屋台が続くという基本構成となっている。 個々の行列には、龗神社の行列構成に獅子頭などが見られるなど、藩に取り込まれる以前の山伏の関与する修験系民間信仰の影響や江戸時代以来の祭具の伝統などが確認されるほか、新羅神社には武者行列など藩とのかかわりを示すものや明治前期の用具の伝統が、神明宮には巫女や子ども裃の行列など町方の関与をうかがわせる要素と明治後期から大正期の用具の伝統がうかがえるなど、各社の信仰の背景と時代性を示すものとなっている。 8月1日の初日をお通りと言い、神明宮、龗神社、新羅神社の順で長者山に向かう。3日目のお還りは神明宮、新羅神社、龗神社の順で行列が並び、長者山から龗神社へと市内を巡幸した。行列の経路は昭和37年以降に山車の大型化に伴ってたびたび変更となったが、かつて大店が軒を連ねた市内の表通りと、職人たちが住む裏通りをめぐる江戸時代の巡幸経路の伝統を留めている。 また、2日目の中日は新羅神社で加賀美流騎馬打毬と徒打毬が行われ、この日は山車のみが運行される。 山車の初出は、延享4年(1747)7月の法龗社の祭礼記録で、この年に初めて町人の奉納する「出し」が登場したことが見える。当時の「出し」の飾り付けは不明であるが、「出し」の前後には笠鉾も出たことが記録されている。江戸時代に見られた出し人形は、「信玄」「真田左衛門佐」「関羽」「金平」「弁慶」「草刈山王(露)」「僧正坊」「式三番双」「太公望」「神功皇后と武内宿禰」「布袋」「恵比寿」の12種で、「草刈山王(露)」を除いて他はすべて有力町人と見られる個人の所有となっている。 こうした固定した人形を飾る山車は、明治20年代を境にしだいに町内が所有し、趣向を凝らした物語を毎年作り替える風流系の山車に変わっていく。町内所有の風流系の山車は、明治25年(1892)の記録に6台が初めて登場してくる。しかし、人形山車は大正時代終わり頃までは曳き出されていたことが記録されており、曳き出されない出し人形は商家の店先に飾られていたようである。 なお、江戸時代の出し人形類は現在もいくつか伝わっているが、その中で三社大祭との関係が確認された「武田信玄と屋台一式」「太公望と屋台一式」「神功皇后と武内宿禰」「為朝と嶋人」「享保六年紀年銘鉾先」が、平成15年八戸市有形文化財に指定されており、平成15年の祭礼には龗神社の行列に、太公望の人形山車が曳き出されている。 この祭りの山車は、延享4年(1747)に裕福な町人が奉納した人形山車が、明治24年に町内所有の風流山車へと変化し、更に近代的な意匠へと変化した経緯が現存する山車類から明確であること、祭りの運営組織や運行習俗などにも伝統性を濃厚に残すことなど、我が国の山車祭りの変遷過程と、風流系統の山車の展開の様相を如実に示す事例として貴重である。さらにこの祭りは、青森県南部から岩手県北部にかけて広く分布する祭りの中心的なものであり、地域的特色も豊かである。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)