国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
登録有形民俗文化財
主情報
名称
:
若狭めのうの玉磨用具
ふりがな
:
わかさめのうのたますりようぐ
若狭めのうの玉磨用具
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員数
:
327点
種別
:
生産、生業に用いられるもの
その他参考となるべき事項
:
登録番号
:
00001
登録年月日
:
2006.03.15(平成18.03.15)
追加年月日
:
登録基準1
:
二 有形の民俗文化財の収集であって、その目的、内容等が歴史的変遷、時代的特色、地域的特色、技術的特色、生活様式の特色又は職能の様相を示すもの
登録基準2
:
登録基準3
:
所在都道府県
:
福井県
所在地
:
小浜市遠敷2丁目104
保管施設の名称
:
福井県立若狭歴史民俗資料館
所有者名
:
福井県
管理団体・管理責任者名
:
若狭めのうの玉磨用具
解説文:
詳細解説
この資料は、若狭地方で行われためのうの玉の製造技術に関する用具とその半製品である。若狭地方ではめのうの玉を製造することを「玉磨」と呼ぶ。玉磨は、享保年間(1716~1736)、遠敷村(現小浜市遠敷)の高山喜兵衛が、大坂で金剛砂を使用した研磨の技法を、さらに津軽でめのうの焼き入れの技法を習得し、村に戻って玉磨を始めたことに由来するといわれている。その後、玉磨に従事する者がしだいに増え、その製品は「若狭玉」「遠敷玉」などと呼ばれ、京都や大坂に売られ、緒締玉、数珠玉、かんざし玉などとして広く利用されてきた。
江戸時代は玉磨だけが行われていたが、明治になると用具の機械化・動力化が進むとともに彫刻の技法が開発され、香炉や盃、仏像、動物類の置物などが製作されるようになった。それ以後、製品は各種博覧会などにも出品されるようになり、組合も組織されて若狭めのう細工として展開して今日に至っている。一方、江戸時代より続く玉磨は、彫刻の技法の発達にともない次第に衰退し、昭和30年代にはほとんど行われなくなった。
めのうの原石は、古くは若狭地方でも産出したといわれているが、江戸時代以来石川、富山、島根などから運び込まれていた。明治中頃からは北海道に良質な原石が見つかったため、組合が採掘場を所有してその原石を採掘してきた。戦後は国産の原石は使われなくなり、比較的安価なブラジル産を使用するようになっている。
本資料は、若狭瑪瑙商工業協同組合が収集した資料と小浜市内の職人から直接収集した資料から構成されており、昭和30年代まで行われていた、めのうの玉磨に使用された用具である。玉磨は、大きく焼き入れ、切断、欠込み、穴あけ、削り、磨の6
つの工程からなっており、工程ごとの分業体制で行われていた。この資料は、焼き入れに使用する火釜から磨に使用する磨き棒や磨き板まで各工程で使用する用具が網羅的に収集されているほか、原石、さらに工程ごとの半製品も含まれている。 わが国の玉造りは、水晶や翡翠などを主な原石として利用してきたが、めのうを利用した玉磨は、若狭地方独自のもので、製品は「若狭玉」、「遠敷玉」と呼ばれて重宝されてきた。玉磨は昭和三十年代に衰退するが、その技術は若狭めのう細工へと受け継がれて今日に至っている。
本件は、江戸時代以来、玉磨を行ってきた若狭地方で使用された玉磨の用具と各工程の半製品等を網羅的に収集したものであり、若狭地方のめのうの加工技術、わが国の玉の製造技術の一端を示す資料である。
よって登録有形民俗文化財に登録しようとするものである。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
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若狭めのうの玉磨用具
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若狭めのうの玉磨用具
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若狭めのうの玉磨用具
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解説文
この資料は、若狭地方で行われためのうの玉の製造技術に関する用具とその半製品である。若狭地方ではめのうの玉を製造することを「玉磨」と呼ぶ。玉磨は、享保年間(1716~1736)、遠敷村(現小浜市遠敷)の高山喜兵衛が、大坂で金剛砂を使用した研磨の技法を、さらに津軽でめのうの焼き入れの技法を習得し、村に戻って玉磨を始めたことに由来するといわれている。その後、玉磨に従事する者がしだいに増え、その製品は「若狭玉」「遠敷玉」などと呼ばれ、京都や大坂に売られ、緒締玉、数珠玉、かんざし玉などとして広く利用されてきた。 江戸時代は玉磨だけが行われていたが、明治になると用具の機械化・動力化が進むとともに彫刻の技法が開発され、香炉や盃、仏像、動物類の置物などが製作されるようになった。それ以後、製品は各種博覧会などにも出品されるようになり、組合も組織されて若狭めのう細工として展開して今日に至っている。一方、江戸時代より続く玉磨は、彫刻の技法の発達にともない次第に衰退し、昭和30年代にはほとんど行われなくなった。 めのうの原石は、古くは若狭地方でも産出したといわれているが、江戸時代以来石川、富山、島根などから運び込まれていた。明治中頃からは北海道に良質な原石が見つかったため、組合が採掘場を所有してその原石を採掘してきた。戦後は国産の原石は使われなくなり、比較的安価なブラジル産を使用するようになっている。 本資料は、若狭瑪瑙商工業協同組合が収集した資料と小浜市内の職人から直接収集した資料から構成されており、昭和30年代まで行われていた、めのうの玉磨に使用された用具である。玉磨は、大きく焼き入れ、切断、欠込み、穴あけ、削り、磨の6 つの工程からなっており、工程ごとの分業体制で行われていた。この資料は、焼き入れに使用する火釜から磨に使用する磨き棒や磨き板まで各工程で使用する用具が網羅的に収集されているほか、原石、さらに工程ごとの半製品も含まれている。 わが国の玉造りは、水晶や翡翠などを主な原石として利用してきたが、めのうを利用した玉磨は、若狭地方独自のもので、製品は「若狭玉」、「遠敷玉」と呼ばれて重宝されてきた。玉磨は昭和三十年代に衰退するが、その技術は若狭めのう細工へと受け継がれて今日に至っている。 本件は、江戸時代以来、玉磨を行ってきた若狭地方で使用された玉磨の用具と各工程の半製品等を網羅的に収集したものであり、若狭地方のめのうの加工技術、わが国の玉の製造技術の一端を示す資料である。 よって登録有形民俗文化財に登録しようとするものである。
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詳細解説
この資料は、若狭地方で行われためのうの玉の製造技術に関する用具とその半製品である。若狭地方ではめのうの玉を製造することを「玉磨」と呼ぶ。玉磨は、享保年間(1716~1736)、遠敷村(現小浜市遠敷)の高山喜兵衛が、大坂で金剛砂を使用した研磨の技法を、さらに津軽でめのうの焼き入れの技法を習得し、村に戻って玉磨を始めたことに由来するといわれている。その後、玉磨に従事する者がしだいに増え、その製品は「若狭玉」「遠敷玉」などと呼ばれ、京都や大坂に売られ、緒締玉、数珠玉、かんざし玉などとして広く利用されてきた。 江戸時代は玉磨だけが行われていたが、明治になると用具の機械化・動力化が進むとともに彫刻の技法が開発され、香炉や盃、仏像、動物類の置物などが製作されるようになった。それ以後、製品は各種博覧会などにも出品されるようになり、組合も組織されて若狭めのう細工として展開して今日に至っている。一方、江戸時代より続く玉磨は、彫刻の技法の発達にともない次第に衰退し、昭和30年代にはほとんど行われなくなった。 めのうの原石は、古くは若狭地方でも産出したといわれているが、江戸時代以来石川、富山、島根などから運び込まれていた。明治中頃からは北海道に良質な原石が見つかったため、組合が採掘場を所有してその原石を採掘してきた。戦後は国産の原石は使われなくなり、比較的安価なブラジル産を使用するようになっている。 本資料は、若狭瑪瑙商工業協同組合が収集した資料と小浜市内の職人から直接収集した資料から構成されており、昭和30年代まで行われていた、めのうの玉磨に使用された用具である。玉磨は、大きく焼き入れ、切断、欠込み、穴あけ、削り、磨の6 つの工程からなっており、工程ごとの分業体制で行われていた。この資料は、焼き入れに使用する火釜から磨に使用する磨き棒や磨き板まで各工程で使用する用具が網羅的に収集されているほか、原石、さらに工程ごとの半製品も含まれている。 わが国の玉造りは、水晶や翡翠などを主な原石として利用してきたが、めのうを利用した玉磨は、若狭地方をはじめ出雲地方などわずか数カ所で発達したもので、若狭地方の製品は「若狭玉」、「遠敷玉」と呼ばれて広く重宝されてきた。玉磨は昭和30年代に衰退するが、その技術は若狭めのう細工へと受け継がれて今日に至っている。 江戸時代以来、玉磨を行ってきた若狭地方で使用された玉磨の用具と各工程の半製品等を網羅的に収集したものであり、若狭地方のめのうの加工技術、わが国の玉の製造技術の一端を示す資料である。