国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
主情報
名称
:
粟田部の蓬莱祀
ふりがな
:
あわたべのおらいし
粟田部の蓬莱祀
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
年中行事
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年2月11・13日(※選択当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
選択番号
:
選択年月日
:
2005.02.21(平成17.02.21)
追加年月日
:
選択基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
選択基準2
:
選択基準3
:
所在都道府県、地域
:
福井県
所在地
:
保護団体名
:
岡太神社敬成会、粟田部壮年会
粟田部の蓬莱祀
解説文:
詳細解説
粟田部の蓬莱祀は、旧今立町の粟田部地区に伝わる小正月の行事で、大きな木橇の上に餅花や御幣、鏡餅などを飾り付けたダシ(山車)と称される独特の作り物を作り、五穀豊穣や無病息災、国家安寧を祈願して地区内を曳き回すものである。
この行事は、年頭に行われる予祝行事としての性格が強く認められ、我が国の年中行事や民間信仰の変遷を考えるうえで貴重である。また餅花や正月飾りが山車の形態をとって巡行するかたちは、新年の予祝行事が風流化したと考えられるもので、全国的にも類例が少なく地域的特色が豊かである。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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粟田部の蓬莱祀
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粟田部の蓬莱祀
解説文
粟田部の蓬莱祀は、旧今立町の粟田部地区に伝わる小正月の行事で、大きな木橇の上に餅花や御幣、鏡餅などを飾り付けたダシ(山車)と称される独特の作り物を作り、五穀豊穣や無病息災、国家安寧を祈願して地区内を曳き回すものである。 この行事は、年頭に行われる予祝行事としての性格が強く認められ、我が国の年中行事や民間信仰の変遷を考えるうえで貴重である。また餅花や正月飾りが山車の形態をとって巡行するかたちは、新年の予祝行事が風流化したと考えられるもので、全国的にも類例が少なく地域的特色が豊かである。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
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詳細解説
粟田部の蓬莱祀は、旧今立町の粟田部地区に伝わる小正月の行事で、大きな木橇の上に餅花や御幣、鏡餅などを飾り付けたダシ(山車)と称される独特の作り物を作り、五穀豊穣や無病息災、国家安寧を祈願して地区内を曳き回すものである。 今立町は、福井県嶺北地方の中央部、武生盆地の東端に位置する。蓬莱祀が伝承されている粟田部地区は、通称三里山と呼ばれる行司ヶ岳東南麓の在郷町で、農業を営む一方、今立郡下の村々から武生へ至る中継地点に当たる地理的条件から、この地方一帯の商業や交易の中心として栄えてきたところである。 この行事は、かつては有力商人など地区の分限者の中から籤引きで当番を決め、この当番を中心に行事が営まれてきたが、現在は、粟田部地区の氏神である岡太神社の氏子で、長老格の男性から構成される岡太神社敬正会と壮年層の男性を中心とする粟田部壮年会を中心に行われている。 かつては1月13日が祭日であり、明治6年の改暦以降は月遅れの2月13日に行われるようになったが、昭和59年に山車の曳き回しを祝日の2月11日に移し、13日に岡太神社で餅の配布と直会を行う次第になり、現在に至っている。 蓬莱祀は、文化12年(1815)の『越前国名蹟考』に、賑やかな行事の様子を伝える絵図とともにその記事が見え、また、岡太神社所蔵の文書資料には天正年間(1573~92)に遡る行事の記録が残されているなど、この地域に古くから伝えられてきた行事であることがうかがわれる。 その由来については諸説あるが、粟田部は継体天皇が即位する以前、男大迹皇子【おおとのおうじ】の時代に住した地であるとの伝承があり、蓬莱祀はこの継体天皇の行幸を擬して始められたとも、また、三里山を中国の神仙思想で説かれる蓬莱山に見立てて山車を作り祝ったことに由来するともいわれている。 2月11日は、午前中に2つの会の男性たちが岡太神社に集まり、山車の組み立てと飾り付けを行う。山車は長さ6㍍ほどのシュラと呼ばれる木橇の上に円筒形の台座を載せ、その上にさまざまな飾り物を付けた華やかなものである。台座は、俵締めと称して藁束を莚で覆い荒縄で締め、直径約3㍍の大きさに仕上げられる。この台座の中央に栗の木に小さな餅をたわわに付けた米花あるいは繭玉と呼ばれる飾りが立てられる。栗の木は必ず三里山から採ってくるものとされ、行事が終わると次の年に使う枝振りの良い木を見立てておくという。米花の左右には御幣を上部に付けた幣竹【にぎてだけ】と鏡餅を挟み込んだ鏡竹、その前面には細く割った青竹に丸餅を挿した串の餅や松の折枝などが飾られ、最後に台座の周囲を杉の青葉を使って根締めをする。こうして完成した山車は、岡太神社の鳥居の前に置かれ、御神酒や米、野菜、乾物などが三方に載せて供えられる。 午後1時頃、山車の前で祭典が行われた後、山車は赤い頭巾と羽織を着けた音頭取りと呼ばれる2人の長老を乗せ、大勢の男性たちに曳かれて神社を出発する。山車は太鼓を載せた囃子屋台に先導され、音頭取りの唄う木遣り唄に合わせて粟田部の地区内を賑やかに巡行する。山車を曳くとその年は病気をしないといわれており、各町内では山車がやってくると老若男女が曳き手として加わり、また、各町内では餅を付けた栗の小枝が配られる。 近世においては、山車の巡行時には往来の通行は厳しく規制され、蓑笠を着けて見物することも許されなかったほど厳粛な行事であったと伝えられ、文政年間(1818~30)には蓑笠の着用をめぐって福井藩も巻き込んだ騒動も起こっている。山車の一行は途中、氏子総代の家などを宿として休憩を取りながら各町内を練り歩き、最後に岡太神社に戻って曳き回しは終了となる。 2月13日は、地区の長老たちが岡太神社に集まり、山車上に飾り付けた串の餅が配られ、直会が行われる。 (※解説は選択当時のものをもとにしています)