国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
主情報
名称
:
中津川の鉄砲堰製作技術
ふりがな
:
なかつがわのてっぽうぜきせいさくぎじゅつ
中津川の鉄砲堰製作技術
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種別1
:
民俗技術
種別2
:
生産・生業
その他参考となるべき事項
:
選択番号
:
選択年月日
:
2008.03.13(平成20.03.13)
追加年月日
:
選択基準1
:
(二)技術の変遷の過程を示すもの
選択基準2
:
(三)地域的特色を示すもの
選択基準3
:
所在都道府県、地域
:
埼玉県
所在地
:
保護団体名
:
中津川鉄砲堰保存会
中津川の鉄砲堰製作技術
解説文:
詳細解説
中津川の鉄砲堰製作技術は、埼玉県秩父市中津川に伝承される鉄砲堰を作る技術である。鉄砲堰とは、鉄砲流しと呼ばれる木材流送に用いられ、山中で伐り出された木材を貯めた水を一気に放水することで、下流に押し流すために沢や小河川に設けられてきた。
鉄砲堰の製作型式には、規模が小さく木材を縦に並べて川を堰き止める秋田式と、規模が大きく木材を横に積み上げる越中式が知られるが、中津川のものは両者の構造を取り入れ、小規模ながらも川底から木材を横に積み上げていく独自の堰である。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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中津川の鉄砲堰製作技術
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中津川の鉄砲堰製作技術
解説文
中津川の鉄砲堰製作技術は、埼玉県秩父市中津川に伝承される鉄砲堰を作る技術である。鉄砲堰とは、鉄砲流しと呼ばれる木材流送に用いられ、山中で伐り出された木材を貯めた水を一気に放水することで、下流に押し流すために沢や小河川に設けられてきた。 鉄砲堰の製作型式には、規模が小さく木材を縦に並べて川を堰き止める秋田式と、規模が大きく木材を横に積み上げる越中式が知られるが、中津川のものは両者の構造を取り入れ、小規模ながらも川底から木材を横に積み上げていく独自の堰である。(※解説は指定当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
中津川の鉄砲堰製作技術は、埼玉県秩父市中津川に伝承される鉄砲堰と呼ばれる木組みの堰を作る技術である。 鉄砲堰とは、鉄砲流しと呼ばれる木材流送に使われてきた堰のことで、山中で伐り出された木材を貯めた水を一気に放水することで下流に押し流すために沢や小河川に設けられてきたものである。この鉄砲堰を製作する技術が、秩父市の中でも荒川の上流にある中津川地区に伝承されている。 中津川地区は、平成16年までは、埼玉県の最西端に位置する秩父郡の旧大滝村に属していた荒川源流の集落である。大滝村は、面積の9割以上を山林が占め、林業に依存して生計を維持してきた地域であり、この大滝村と長野県南佐久郡との境にある十文字峠を源とし、村域を延長約26㎞にわたって東流するのが中津川である。鉄砲堰は、この中津川の水系となる大小の沢に構築されてきた。 鉄砲堰は、木曽や吉野など早くから林業が盛んであった地域の運材技法にその原型があるといわれるが、明治以降の木材需要の高まりの中で、大量の木材を山中から搬出する装置として広く利用され、各地の河川に作られてきた。こうした鉄砲堰の製作型式については、木材流送に関わる者たちが使用していた呼称として、秋田式と越中式が知られる。 秋田式とは、秋田県米代川上流に発祥した堰で、規模は小さく木材を縦に並べて川を堰き止める構造を基本とする。 一方、越中式とは、富山県庄川流域の運材に携わる技術集団が伝えたとされる堰で、秋田式よりも規模が大きく長期の使用に耐えられるよう頑丈に作られ、木材を横に積み上げる構造を基本とする。この二つの型式の堰が木材流送に従事する者たちによって日本の各地に伝播されていったと考えられている。 中津川に伝わる鉄砲堰の製作技術は、大正時代に静岡県大井川から伝播された。大滝村の林業関係者の中には、大井川上流の井川山林へ出稼ぎに行き、木材搬出の仕事に携わっていた者も多く、この地域との交流を通して鉄砲堰の製作技術が導入された。ただし、中津川は、川幅が狭い割に両岸の傾斜がきつく、川底も平坦な部分が少ないため、秋田式や越中式をそのまま採用せず、両者の構造を取り入れながら地形に合わせて改良を加え、中津川独自の堰を考案した。 その構造は、小規模の秋田式を基本としながらも、木材の組み方は川底から材を横に積み上げていく越中式を採り入れており、大きさは幅5~20㍍、高さ3~7㍍ほどである。 鉄砲堰の製作は、堰を築く場所を選ぶ作業から始まる。鉄砲堰を築く場所は、川幅が比較的狭く、両岸が堅固な岩場で、なおかつ水が十分に貯まる懐の広い流れが選ばれる。 構築場所が決まると、まず堰の骨組を作る。ウワネダと呼ばれる長い丸太を谷に渡し、その下にナカネダとソコネダと呼ぶ丸太を順に配し、下流側から斜めに支柱を設け、櫓状に組んで固定する。骨組は木材の重量や水圧などを経験的に計算しながら作られ、とくに水を堰き止める面や支柱の角度が重視される。木材の結束には番線を使用し、番線と木材の隙間にはヤと呼ばれる木の楔を打ち込む。 骨組ができると、放水口となるマドと呼ばれる中央部分を残して、イレギと呼ばれる丸太を下方から積み上げて壁を作っていく。丸太と丸太の隙間には、水漏れを防ぐために苔や芝草、泥を詰める。堰に使用される木材は、クリやミネバリなど材質の堅い広葉樹で、イレギには曲がりのないカツラやシオジなどが使われる。放水口には、放水時に水が拡散せず勢いよく流れ出るようにナガシと呼ばれる放水路を下流に向けて取り付け、上流側にはナカザオと呼ぶ支えを嵌め込み、その上にベライタと呼ばれる板を何枚も並べて放水口を塞ぐ。 ナカザオの上部には、ベラボウと呼ぶ棒が差し込まれ、これを引くとナカザオとベライタが外れ、轟音とともに放水口から貯まった水が一気に放出される仕組みとなる。 中津川一帯の山林では、昭和13年から県有林の大規模な伐採事業が始まるが、当時同水系には大小7基の鉄砲堰が存在したことが確認されており、昭和10年代まで堰は盛んに作られてきた。しかし、昭和19年に中津川林道が整備されると、鉄砲堰による木材流送は急速に衰退し、昭和20年代初めに大若沢に造られた堰が最後となった。 鉄砲堰は、自然の流れを利用した木材搬出の装置として作られ、山間部からの木材の流送に活躍してきた。しかしながら、上流域への架線や森林鉄道の導入、林道の整備などに伴って次第に衰退し、昭和30年代には全国的におおかた姿を消した。そうした中で、中津川では、鉄砲堰による木材流送は、昭和20年代に終焉を迎えたものの、堰の製作技術は今日も伝えられており、山地における堰づくりの稀少な伝承例として、我が国の林業や運材に関わる民俗技術の変遷を理解するうえで貴重である。しかしながら、時代の推移に伴う生業の変化等によって衰退・変貌の恐れが高くなっている。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)