国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
主情報
名称
:
糸崎の仏舞
ふりがな
:
いとざきのほとけまい
糸崎の仏舞
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種別1
:
民俗芸能
種別2
:
渡来芸・舞台芸
その他参考となるべき事項
:
選択番号
:
1
選択年月日
:
1973.11.05(昭和48.11.05)
追加年月日
:
選択基準1
:
選択基準2
:
選択基準3
:
所在都道府県、地域
:
福井県
所在地
:
保護団体名
:
糸崎の仏舞保存会
糸崎の仏舞
解説文:
糸崎の仏舞は、仏の面を着けた一〇人の舞手が、白い童子の面を着けた二人の幼児に見守られ、太鼓と鉦に合わせて舞うもので、今は行われなくなった舞楽の一演目をうかがわせるものである。
糸崎町【いとさきちょう】は、日本海に面した越前加賀海岸国定公園の一部である。海岸線から小高くなった丘の上に育王山龍華院糸崎寺【いくおうさんりゅうげいんいとさきでら】観音堂がある。この観音堂の前の舞台で、隔年の四月十八日に、糸崎の仏舞が舞われている。
観音堂の正面から一五メートルほど離れて、約五メートル四方で、高さ約七〇センチメートルの石組の仏舞の舞台がある。舞台の周囲は石の欄干が回っている。本堂と舞台は、幅九〇センチメートルほどの通路で結ばれている。舞台の奥側には奥行き約二・七メートルの舞台が別に付き雅楽の楽人や僧侶の席になる。また本堂から向かって舞台の右側には、舞台から一メートルほど離れて、高さ約二・六メートル、広さは二メートル四方ほどの石組の櫓があり、櫓の上にも石の欄干が回っていて、太鼓と鉦の席になる。当日は、午前中に櫓の周囲に紫の垂れ幕を下げ、通路や舞台の周辺には竹の先に赤布を付けた旗が配置される。
公開当日になると、本堂の須弥壇の後方の部屋が、面を着けたり装束を着るための場所になる。成人八人の舞人は、黒頭巾で頭を包み金色の仏の面を着け、黒の法衣【ほうえ】をまとい袈裟をかけ、白い手袋を着ける。頭に飾りの付いた天冠【てんかん】をかぶり手に何も持たない四人を手仏【てほとけ】と呼ぶ。他の四人は頭に輪光【りんこう】の宝冠をかぶっていて、そのうち左手に小さい太鼓を持ち、右手にばちを握る二人を打鼓仏【だごぼとけ】、両手に、それぞればちを握る二人を撥仏【はしぼとけ】と呼ぶ。その他に二人の少年が、青色の法衣と袴【はかま】に金色の仏の面を着け、頭に烏帽子をかぶり念【ねん】菩薩と呼ばれる。うち一人は金属製の蓮の花を二本持ち、他の一人は笏を持っている。以上の一〇人の舞人に加えて、さらに角守【かどまも】りと呼ばれる二人の幼児が出る。彼らは白の法衣と袴に、白色の童子面を着け頭に天冠をのせている。仏舞の伴奏者である太鼓と鉦の二人は裃姿である。また八人の楽人は、頭に烏帽子をのせ、紫の袴に金色の上衣【うわぎ】を着けている。楽器は龍笛【りゅうてき】と篳篥【ひちりき】が三人ずつ、笙【しょう】と楽太鼓【がくだいこ】が一人ずつである。
半鐘【はんしょう】の合図で仏舞が始まる。堂の裏側の部屋から雅楽の越天楽【えてんらく】の演奏にのせて、楽人などに続いて、大人に手を引かれた二人の幼児の角守り、二人の少年の念菩薩、八人の成人の舞人が、堂の正面から通路を通って舞台に向かう。楽人たちは舞台の後方に張り出した場所に座り、角守りと念菩薩は、舞台の四隅にそれぞれ立ち、八人の舞人は、舞台の中央に四人ずつ二列に並ぶ。雅楽が終わると、櫓で太鼓と鉦が打ち鳴らされ仏舞が始まる。
仏舞は一番太鼓の舞、二番太鼓の舞、念菩薩の舞、三番太鼓の舞と続く。一番太鼓の舞と二番太鼓の舞は、太鼓と鉦に合わせて、八人の舞人が舞台の中央で輪になって、ゆるやかに回りながら舞う。二番太鼓の舞が終わると雅楽の演奏があって、八人の舞人は舞台の両側に四人ずつ並ぶ。太鼓と鉦にのせて二人の念菩薩が中央に進み、観音堂に拝礼し、一人が手に持っていた笏を机に置き、他の一人が持っていた蓮の花を受け取り、二人ともに本堂に向かって拝礼して机に蓮の花を置いて、また隅に控える。三番太鼓の舞は、八人の舞人が中央で輪になって舞い、順に一人ずつが舞をやめて隅に控えていき、最後は一人になって舞う。この後、入場と同様に雅楽の演奏にのせて列を作って舞台から観音堂に戻って仏舞が終わる。
糸崎寺は、十一面観音を本尊として八世紀初頭に建立され、さらに天平勝宝八年(七五六)に中国の僧侶が千手観音を持参して、この地に安置したときに、大勢の菩薩が現れて喜びの舞を舞ったことが、仏舞の始まりと伝えている。また糸崎寺は、一〇世紀に成立した延喜式【えんぎしき】に記載されている糸崎神社の別当寺【べっとうじ】ともいわれ、一六世紀の記録に糸崎寺の参詣記録があるが、その後の一向一揆によって衰えたと考えられている。なお一九世紀初めの記録に、この仏舞が絵入りで紹介されていて、遅くとも、そのころから仏舞が行われてきたことが確かめられる。その図では、合計一二人の舞人等や太鼓と鉦の様子は今と同様であるが、舞台や櫓は材木を組んで作っているように描かれている。現在の舞台については、通路を昭和四十八年に、舞台を平成元年に、櫓を平成十三年に、それぞれ今の形に整えたもので、それ以前の舞台は、土の舞台に木製の欄干を置いて、櫓は材木で組んでいたという。
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
写真一覧
糸崎の仏舞
写真一覧
糸崎の仏舞
解説文
糸崎の仏舞は、仏の面を着けた一〇人の舞手が、白い童子の面を着けた二人の幼児に見守られ、太鼓と鉦に合わせて舞うもので、今は行われなくなった舞楽の一演目をうかがわせるものである。 糸崎町【いとさきちょう】は、日本海に面した越前加賀海岸国定公園の一部である。海岸線から小高くなった丘の上に育王山龍華院糸崎寺【いくおうさんりゅうげいんいとさきでら】観音堂がある。この観音堂の前の舞台で、隔年の四月十八日に、糸崎の仏舞が舞われている。 観音堂の正面から一五メートルほど離れて、約五メートル四方で、高さ約七〇センチメートルの石組の仏舞の舞台がある。舞台の周囲は石の欄干が回っている。本堂と舞台は、幅九〇センチメートルほどの通路で結ばれている。舞台の奥側には奥行き約二・七メートルの舞台が別に付き雅楽の楽人や僧侶の席になる。また本堂から向かって舞台の右側には、舞台から一メートルほど離れて、高さ約二・六メートル、広さは二メートル四方ほどの石組の櫓があり、櫓の上にも石の欄干が回っていて、太鼓と鉦の席になる。当日は、午前中に櫓の周囲に紫の垂れ幕を下げ、通路や舞台の周辺には竹の先に赤布を付けた旗が配置される。 公開当日になると、本堂の須弥壇の後方の部屋が、面を着けたり装束を着るための場所になる。成人八人の舞人は、黒頭巾で頭を包み金色の仏の面を着け、黒の法衣【ほうえ】をまとい袈裟をかけ、白い手袋を着ける。頭に飾りの付いた天冠【てんかん】をかぶり手に何も持たない四人を手仏【てほとけ】と呼ぶ。他の四人は頭に輪光【りんこう】の宝冠をかぶっていて、そのうち左手に小さい太鼓を持ち、右手にばちを握る二人を打鼓仏【だごぼとけ】、両手に、それぞればちを握る二人を撥仏【はしぼとけ】と呼ぶ。その他に二人の少年が、青色の法衣と袴【はかま】に金色の仏の面を着け、頭に烏帽子をかぶり念【ねん】菩薩と呼ばれる。うち一人は金属製の蓮の花を二本持ち、他の一人は笏を持っている。以上の一〇人の舞人に加えて、さらに角守【かどまも】りと呼ばれる二人の幼児が出る。彼らは白の法衣と袴に、白色の童子面を着け頭に天冠をのせている。仏舞の伴奏者である太鼓と鉦の二人は裃姿である。また八人の楽人は、頭に烏帽子をのせ、紫の袴に金色の上衣【うわぎ】を着けている。楽器は龍笛【りゅうてき】と篳篥【ひちりき】が三人ずつ、笙【しょう】と楽太鼓【がくだいこ】が一人ずつである。 半鐘【はんしょう】の合図で仏舞が始まる。堂の裏側の部屋から雅楽の越天楽【えてんらく】の演奏にのせて、楽人などに続いて、大人に手を引かれた二人の幼児の角守り、二人の少年の念菩薩、八人の成人の舞人が、堂の正面から通路を通って舞台に向かう。楽人たちは舞台の後方に張り出した場所に座り、角守りと念菩薩は、舞台の四隅にそれぞれ立ち、八人の舞人は、舞台の中央に四人ずつ二列に並ぶ。雅楽が終わると、櫓で太鼓と鉦が打ち鳴らされ仏舞が始まる。 仏舞は一番太鼓の舞、二番太鼓の舞、念菩薩の舞、三番太鼓の舞と続く。一番太鼓の舞と二番太鼓の舞は、太鼓と鉦に合わせて、八人の舞人が舞台の中央で輪になって、ゆるやかに回りながら舞う。二番太鼓の舞が終わると雅楽の演奏があって、八人の舞人は舞台の両側に四人ずつ並ぶ。太鼓と鉦にのせて二人の念菩薩が中央に進み、観音堂に拝礼し、一人が手に持っていた笏を机に置き、他の一人が持っていた蓮の花を受け取り、二人ともに本堂に向かって拝礼して机に蓮の花を置いて、また隅に控える。三番太鼓の舞は、八人の舞人が中央で輪になって舞い、順に一人ずつが舞をやめて隅に控えていき、最後は一人になって舞う。この後、入場と同様に雅楽の演奏にのせて列を作って舞台から観音堂に戻って仏舞が終わる。 糸崎寺は、十一面観音を本尊として八世紀初頭に建立され、さらに天平勝宝八年(七五六)に中国の僧侶が千手観音を持参して、この地に安置したときに、大勢の菩薩が現れて喜びの舞を舞ったことが、仏舞の始まりと伝えている。また糸崎寺は、一〇世紀に成立した延喜式【えんぎしき】に記載されている糸崎神社の別当寺【べっとうじ】ともいわれ、一六世紀の記録に糸崎寺の参詣記録があるが、その後の一向一揆によって衰えたと考えられている。なお一九世紀初めの記録に、この仏舞が絵入りで紹介されていて、遅くとも、そのころから仏舞が行われてきたことが確かめられる。その図では、合計一二人の舞人等や太鼓と鉦の様子は今と同様であるが、舞台や櫓は材木を組んで作っているように描かれている。現在の舞台については、通路を昭和四十八年に、舞台を平成元年に、櫓を平成十三年に、それぞれ今の形に整えたもので、それ以前の舞台は、土の舞台に木製の欄干を置いて、櫓は材木で組んでいたという。