国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
主情報
名称
:
近江八日市の大凧揚げ習俗
ふりがな
:
おうみようかいちしのおおたこあげしゅうぞく
近江八日市の大凧揚げ習俗
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
人生・儀礼
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年5月第四日曜日(※選択当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
記録:『八日市大凧調査報告書』(八日市大凧保存会・昭和45年)
選択番号
:
1
選択年月日
:
1993.11.26(平成5.11.26)
追加年月日
:
選択基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
選択基準2
:
選択基準3
:
所在都道府県、地域
:
滋賀県
所在地
:
保護団体名
:
東近江大凧保存会
近江八日市の大凧揚げ習俗
解説文:
詳細解説
この習俗は、5月の端午の節供に男の子の子初誕生を祝って大きな凧を揚げるもので、八日市市内の中野・芝原・金屋の3つの地区で、江戸時代中期以降から行われてきた。最初は小さな凧であったが、天保年間頃から縦横7間余りの大凧を揚げるようになったとされ、凧の形も全面に紙を張った形から、文字や絵の部分だけ切り残す切抜式へと変わったとされる。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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近江八日市の大凧揚げ習俗
近江八日市の大凧揚げ習俗
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近江八日市の大凧揚げ習俗
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近江八日市の大凧揚げ習俗
解説文
この習俗は、5月の端午の節供に男の子の子初誕生を祝って大きな凧を揚げるもので、八日市市内の中野・芝原・金屋の3つの地区で、江戸時代中期以降から行われてきた。最初は小さな凧であったが、天保年間頃から縦横7間余りの大凧を揚げるようになったとされ、凧の形も全面に紙を張った形から、文字や絵の部分だけ切り残す切抜式へと変わったとされる。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
凧は東アジアおよび東南アジアに伝播の中心をもつ遊具とされ、世界の各地に広く分布している。しかし凧はまた、単なる遊具にとどまらず、それぞれの地域の伝統的な行事や生活習俗のなかで重要な位置を占めている。 我が国の凧揚げの習俗は、江戸時代中期以降に広く盛行し、その後は正月の風物詩として親しまれてきたが、各地には正月以外の季節に凧揚げをする例も多く、むしろこのほうが本来の姿ではなかったかとも考えられる。 なかでも、5月の端午の節供に子どもの初誕生を祝って大きな凧を揚げる習俗が、我が国の各地にみられる。この習俗は、子どもの成長祈願を主とするもので、周囲の人々が力を合わせて祝うことが多く、また地域によっては、いわゆる凧合戦とよばれる競技の要素を伴うことが知られている。 滋賀県八日市市では凧をイカまたはイカノボリという。市内の中野・芝原・金屋の3地区では、江戸時代中期以降から男の子の初節供を祝って、五月の節供に凧が揚げられていた。 はじめの頃の凧は、半紙10枚内外の小さなものであったが、天保年間(1830~1843)頃から縦横7間(約12.6㍍)余りの大凧を揚げるようになったという。これに続いて凧の形も従来の全面に紙を張った形から、文字や絵の部分だけを切り残す切抜式のものへと変化し、上部に描いた絵と下部に書いた文字とに意味を込めた判じものとなっている。 凧は初節供のほか、豊作祝いや国家の慶事などの行事に際しても揚げられた。凧の製作や揚げ手として行事の中心となったのはそれぞれの地区の若衆たちである。かつては各地区が独自に凧の作り方や揚げ方を伝承しており、市内の沖野ケ原に集まって競って凧を揚げていたが、昭和28年からはこの3地区の大凧技術保持者を中心に八日市大凧保存会を結成し、合同で凧揚げを実施するようになっている。 近江八日市の大凧揚げの習俗は、伝統的な習俗とともに地域的な特色も豊富に残していることから、その習俗や製作技術等について早急に記録を作成する必要がある。 (※解説は選択当時のものをもとにしています)