国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
主情報
名称
:
久多の花笠踊
ふりがな
:
くたのはながさおどり
久多<くた>の花笠踊<はながさおどり>
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種別1
:
民俗芸能
種別2
:
風流
その他参考となるべき事項
:
選択番号
:
1
選択年月日
:
1972.08.05(昭和47.08.05)
追加年月日
:
選択基準1
:
選択基準2
:
選択基準3
:
所在都道府県、地域
:
京都府
所在地
:
保護団体名
:
久多花笠踊保存会
久多<くた>の花笠踊<はながさおどり>
解説文:
久多の花笠踊は、地元で花笠と呼ぶ、美しい造花で飾った灯籠を手に持ち、太鼓に合わせて歌い踊るもので、中世に流行した風流踊【ふりゆうおどり】の様子をうかがわせるものである。
久多は、京都市左京区の最北端にあたり、滋賀県と県境を接し、また福井県にも近い山間地帯で、この久多地区は、上【かみ】の町【ちよう】・中【なか】の町・下【しも】の町・宮【みや】の町・川合町【かわいちよう】の五つの集落で構成されている。花笠踊は、これら五つの集落が上【かみ】の組と下【しも】の組の二組に分かれ、互いに競い合うように伝承され、演じられてきた。上の組は上の町と中の町の二つの町で、下の組は下の町と宮の町と川合町の三つの町で構成される。
花笠踊の準備は、花笠の製作から始まる。この花笠は、四角の行灯を六角の台の上に固定し、その台の周囲に布を垂らし、全体を精巧な造花で飾り、灯籠と台の各面に切紙【きりかみ】細工を貼ったものである。かつては、これを笠のように頭にのせて踊ったので、花笠と呼ばれているが、行灯部分に蝋燭の明かりをともす、いわゆる灯籠を造花で飾ったものである。その造花は、菊や牡丹・朝顔などで、ほとんどが紙を材料に作るが、菊はキブシ、地元で「ハシマメ」と呼ぶ植物の茎の芯を材料にすることが特色である。茎から芯の部分を押し出し、その芯を斜めに細く切って一枚の菊の花弁にし、それを多数組み合わせて菊の花を作っている。
この花笠は、花宿【はなやど】と呼ばれる家を決めて町内の人びとがそこに集まって作る。下の町と川合町は合わせて一軒の花宿を決め、他は各町ごとに花宿を決めるので、合計で四軒の花宿ができる。各花宿では踊りと歌の練習も行われる。
八月二十四日の夜になると、それぞれの花宿ごとに町内の人びとが集まり、花笠の行灯の蝋燭に火をともし、それを持って各花宿から出発し、まず上の宮神社に集まる。久多地区全体から選ばれた二名の「神殿【こうどの】」と呼ばれる者が、花笠を受け取り社殿に供えて祈った後に、花笠を人びとに戻す。まず棒を持った二名の「より棒」と呼ばれる者が、互いに棒を打ち合い、その後、五つの集落は上と下の二組に分かれ、締【しめ】太鼓を打って歌い、花笠をもって踊る。次に大川神社に移動して踊り、志古淵【しこぶち】神社に向かう。
志古淵神社の境内では、中央に櫓が組まれ、櫓の上の音頭【おんど】取の歌と太鼓打ちの打つ太鼓に合わせ、江州【ごうしゆう】音頭などの近世に流行した盆踊が踊られている。花笠踊の一行は、上の宮神社と同様に、花笠を「神殿」に渡して社殿に供え、「神殿」の祈りの後に花笠を受け取り、「より棒」が盆踊の輪を割るように進み、拝殿前で棒を打ち合うと、盆踊が終わって花笠踊が始まる。
中央に一つの締太鼓を木枠の上に置き、その背後に歌い手が並び、その周囲を花笠を持った人びとが踊る。現在、踊りは「道行【みちゆき】」「綾【あや】の踊り」「塩汲【しおく】み踊り」など十数曲が伝承され、そのうち七曲がここで披露される。上の組と下の組が、三曲と四曲を、それぞれを一年交代で受け持って踊っている。踊りの所作は、体をかすかに左右にひねってかがんだり、左右の足を交互に出すなど、簡単な動作を繰り返すものである。
この花笠踊の起源は明らかではないが、明治時代の記録とされる『花笠踊本』や『踊番付【ばんづけ】六拾壱番』に一三〇を超える歌詞が書かれている。その歌詞には、言葉が七五七五で区切られる短い歌をいくつか組み合わせて構成されているものがある。近世になると多くなる七七七五の歌詞になる以前の形式であり、また短い歌を次々と組み合わせる構成も、いわゆる室町小歌【こうた】と呼ばれる中世に流行した歌謡の流れをひいている。
また現在の久多の花笠踊は、大人が花笠を持って踊るが、大正末期から昭和初期までは、少年が頭に花笠をのせて踊り、その背後に少年の父や年長者が立ち、少年のかぶる花笠を支えながらともに踊ったといわれている。久多の花笠は、その中に明かりをともすいわゆる灯籠であり、このような灯籠を頭にのせて踊る「灯籠踊」は、京都を中心に一六世紀に流行した風流踊の一つで、久多の花笠踊は、その様子をうかがわせるものである。さらに久多の花笠踊は、上と下の組が互いに踊りを競ったが、これは踊り手が二組に分かれ、片方の踊りに対して、それにふさわしい踊りを直ちに踊り返したという、やはり一六世紀ころの風流踊のあり方の一つである「掛踊【かけおどり】」の様子もしのばせている。
このように久多の花笠踊は、中世に盛んに行われた風流踊の様子をうかがわせ、芸能の変遷の過程と地域的特色を示すものとしてとくに重要なものである。
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
写真一覧
久多<くた>の花笠踊<はながさおどり>
写真一覧
久多<くた>の花笠踊<はながさおどり>
解説文
久多の花笠踊は、地元で花笠と呼ぶ、美しい造花で飾った灯籠を手に持ち、太鼓に合わせて歌い踊るもので、中世に流行した風流踊【ふりゆうおどり】の様子をうかがわせるものである。 久多は、京都市左京区の最北端にあたり、滋賀県と県境を接し、また福井県にも近い山間地帯で、この久多地区は、上【かみ】の町【ちよう】・中【なか】の町・下【しも】の町・宮【みや】の町・川合町【かわいちよう】の五つの集落で構成されている。花笠踊は、これら五つの集落が上【かみ】の組と下【しも】の組の二組に分かれ、互いに競い合うように伝承され、演じられてきた。上の組は上の町と中の町の二つの町で、下の組は下の町と宮の町と川合町の三つの町で構成される。 花笠踊の準備は、花笠の製作から始まる。この花笠は、四角の行灯を六角の台の上に固定し、その台の周囲に布を垂らし、全体を精巧な造花で飾り、灯籠と台の各面に切紙【きりかみ】細工を貼ったものである。かつては、これを笠のように頭にのせて踊ったので、花笠と呼ばれているが、行灯部分に蝋燭の明かりをともす、いわゆる灯籠を造花で飾ったものである。その造花は、菊や牡丹・朝顔などで、ほとんどが紙を材料に作るが、菊はキブシ、地元で「ハシマメ」と呼ぶ植物の茎の芯を材料にすることが特色である。茎から芯の部分を押し出し、その芯を斜めに細く切って一枚の菊の花弁にし、それを多数組み合わせて菊の花を作っている。 この花笠は、花宿【はなやど】と呼ばれる家を決めて町内の人びとがそこに集まって作る。下の町と川合町は合わせて一軒の花宿を決め、他は各町ごとに花宿を決めるので、合計で四軒の花宿ができる。各花宿では踊りと歌の練習も行われる。 八月二十四日の夜になると、それぞれの花宿ごとに町内の人びとが集まり、花笠の行灯の蝋燭に火をともし、それを持って各花宿から出発し、まず上の宮神社に集まる。久多地区全体から選ばれた二名の「神殿【こうどの】」と呼ばれる者が、花笠を受け取り社殿に供えて祈った後に、花笠を人びとに戻す。まず棒を持った二名の「より棒」と呼ばれる者が、互いに棒を打ち合い、その後、五つの集落は上と下の二組に分かれ、締【しめ】太鼓を打って歌い、花笠をもって踊る。次に大川神社に移動して踊り、志古淵【しこぶち】神社に向かう。 志古淵神社の境内では、中央に櫓が組まれ、櫓の上の音頭【おんど】取の歌と太鼓打ちの打つ太鼓に合わせ、江州【ごうしゆう】音頭などの近世に流行した盆踊が踊られている。花笠踊の一行は、上の宮神社と同様に、花笠を「神殿」に渡して社殿に供え、「神殿」の祈りの後に花笠を受け取り、「より棒」が盆踊の輪を割るように進み、拝殿前で棒を打ち合うと、盆踊が終わって花笠踊が始まる。 中央に一つの締太鼓を木枠の上に置き、その背後に歌い手が並び、その周囲を花笠を持った人びとが踊る。現在、踊りは「道行【みちゆき】」「綾【あや】の踊り」「塩汲【しおく】み踊り」など十数曲が伝承され、そのうち七曲がここで披露される。上の組と下の組が、三曲と四曲を、それぞれを一年交代で受け持って踊っている。踊りの所作は、体をかすかに左右にひねってかがんだり、左右の足を交互に出すなど、簡単な動作を繰り返すものである。 この花笠踊の起源は明らかではないが、明治時代の記録とされる『花笠踊本』や『踊番付【ばんづけ】六拾壱番』に一三〇を超える歌詞が書かれている。その歌詞には、言葉が七五七五で区切られる短い歌をいくつか組み合わせて構成されているものがある。近世になると多くなる七七七五の歌詞になる以前の形式であり、また短い歌を次々と組み合わせる構成も、いわゆる室町小歌【こうた】と呼ばれる中世に流行した歌謡の流れをひいている。 また現在の久多の花笠踊は、大人が花笠を持って踊るが、大正末期から昭和初期までは、少年が頭に花笠をのせて踊り、その背後に少年の父や年長者が立ち、少年のかぶる花笠を支えながらともに踊ったといわれている。久多の花笠は、その中に明かりをともすいわゆる灯籠であり、このような灯籠を頭にのせて踊る「灯籠踊」は、京都を中心に一六世紀に流行した風流踊の一つで、久多の花笠踊は、その様子をうかがわせるものである。さらに久多の花笠踊は、上と下の組が互いに踊りを競ったが、これは踊り手が二組に分かれ、片方の踊りに対して、それにふさわしい踊りを直ちに踊り返したという、やはり一六世紀ころの風流踊のあり方の一つである「掛踊【かけおどり】」の様子もしのばせている。 このように久多の花笠踊は、中世に盛んに行われた風流踊の様子をうかがわせ、芸能の変遷の過程と地域的特色を示すものとしてとくに重要なものである。