国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
主情報
名称
:
田代の売薬習俗
ふりがな
:
たしろのばいやくしゅうぞく
田代の売薬習俗
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
生産・生業
その他参考となるべき事項
:
記録:『田代の売薬習俗』(企画文化庁・制作さいたま民俗文化研究所・平成23年3月31日)
選択番号
:
1
選択年月日
:
1995.12.26(平成7.12.26)
追加年月日
:
選択基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
選択基準2
:
選択基準3
:
所在都道府県、地域
:
佐賀県
所在地
:
保護団体名
:
特定せず
田代の売薬習俗
解説文:
詳細解説
この習俗は、現在の鳥栖市と三養基郡基山町にまたがる旧対馬藩田代領一帯にみられた売薬の習俗である。九州一円から中国・四国の一部までを得意場とする家庭用の配置売薬業で、朝鮮から製薬法を学び、富山から配置法を学んだといわれ、明治以後は、延膏薬が製造され、「内服薬は越中さん、外用薬は田代売薬人」といわれるようになり、膏薬得意の田代売薬が確立した。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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田代の売薬習俗
田代の売薬習俗
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田代の売薬習俗
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田代の売薬習俗
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田代の売薬習俗
解説文
この習俗は、現在の鳥栖市と三養基郡基山町にまたがる旧対馬藩田代領一帯にみられた売薬の習俗である。九州一円から中国・四国の一部までを得意場とする家庭用の配置売薬業で、朝鮮から製薬法を学び、富山から配置法を学んだといわれ、明治以後は、延膏薬が製造され、「内服薬は越中さん、外用薬は田代売薬人」といわれるようになり、膏薬得意の田代売薬が確立した。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
現在の鳥栖市と三養基郡基山町にまたがる旧対馬藩田代領一帯は、かつては越中富山の薬売りと並んで、九州一円から中国・四国の一部までを主な得意場とする家庭用の配置売薬業で栄えた地域である。田代・瓜生野の両町を中心に売薬の行商が行われ、売薬人は「田代売薬」あるいは「対馬の薬屋さん」とよばれた。 売薬とは医師の処方によって調合するものでなく、前もって調合しておいて一般に販売する薬をいうが、かつては民間薬一般を広くこのように呼んでいた。 我が国の売薬は、古くは神官や僧侶・修験者などが、家伝の秘方、神仏の託宣などの名目で発売するものが多かったが、江戸時代には独自の発達を遂げた。享保年間、幕府によって薬草の栽培が行われるようになり、各種の医薬書が出版されるようになると売薬の種類も増加した。田代領には、対馬藩との関係から早くから朝鮮の薬種や医薬品製造の知識が伝わっていたようで、こうしたこともこの地に売薬業を発達させる要因となっていたと考えられる。 田代売薬の起源は不明であるが、残された記録から宝暦年間(1751~1763)にはすでに売薬の行商が行われていたことがわかる。これに先立ち九州にはすでに富山の売薬人が入っていた。田代の代表的な売薬は朝鮮名法奇応丸であるが、この製法を朝鮮から学び、富山の売薬から配置法を学んで各地に広めたと伝えられている。田代の売薬はその当初から、富山の売薬の影響の下に発達していったのである。 田代の売薬制度が確立するのは天明から寛政年間のことであった。売薬人は富山の売薬人に互して販路を拡大し、幕末期には薩摩を除く九州各地と、中国・四国の一部にまで得意先を広げていた。しかし、明治に入ると一時沈静の時期に入り、この時期に田代売薬が家内工業から工場制手工業へと転換しつつあった。 明治30年代になると、従来の漢薬から洋薬調剤による新しい薬が登場したり、丸薬製造の専門業者も現れるようになった。また、明治37、8年頃には田代の製薬業者の手で、ロールによる延膏薬の製造法が開発され、量産が可能となって、延膏薬の万金膏は一躍田代売薬の代表的な薬となり、「内服薬は越中さん、外用薬は田代売薬人」といわれるように、膏薬得意の田代売薬が確立するのである。 明治末期から大正初期にかけての時期、田代町・鳥栖町には次々と製薬会社が設立されて、従来の売薬業者のほとんどがこれらの会社に所属することとなった。なお、大正7年頃から流行したスペイン風邪の流行時は、痛みを和らげる延膏薬の売り上げが一層伸びて田代売薬の発展に大いに寄与した。しかし、この景気も長くは続かず、昭和初期の恐慌によって売れ行き不振の時期を迎える。 その後、第二次世界大戦後には製薬業者の新たな再編が行われ、昭和20年代後半から30年代前半にかけて戦後の家庭配置薬全盛期を迎えたが、その後の高度経済成長期への移行に伴い家庭配置薬は急激に衰微した。 田代の売薬は、富山・近江日野・大和の売薬とともに、わが国を代表する売薬の一つであることから、早急に記録を作成する必要がある。 (※解説は選択当時のものをもとにしています)