国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
主情報
名称
:
山寺夜行念仏の習俗
ふりがな
:
やまでらやぎょうねんぶつのしゅうぞく
山寺夜行念仏の習俗
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年8月6・7日(※選択当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
記録:『盆行事Ⅴ(山形県・新潟県)(無形の民俗文化財記録第47集)』(文化庁文化財部・平成16年3月31日)
記録:『山寺夜行念仏の習俗調査報告書』(山形県教育委員会・平成17年3月31日)
映像:『山寺夜行念仏の習俗』(山形県教育委員会・平成18年3月)
選択番号
:
1
選択年月日
:
1999.12.03(平成11.12.03)
追加年月日
:
選択基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
選択基準2
:
選択基準3
:
所在都道府県、地域
:
山形県
所在地
:
保護団体名
:
高擶夜行念仏講、山寺夜行念仏保存会
山寺夜行念仏の習俗
解説文:
詳細解説
山寺夜行念仏の習俗は、8月6日夜から7日朝にかけて、山形市の立石寺で高擶夜行念仏講、山寺夜行念仏保存会の人たちによって行われる行事である。夜念仏・六斎夜念仏の系譜に連なる行事であり、盆の時期に行われる死者供養の行事でもある。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
写真一覧
山寺夜行念仏の習俗
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山寺夜行念仏の習俗
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山寺夜行念仏の習俗
解説文
山寺夜行念仏の習俗は、8月6日夜から7日朝にかけて、山形市の立石寺で高擶夜行念仏講、山寺夜行念仏保存会の人たちによって行われる行事である。夜念仏・六斎夜念仏の系譜に連なる行事であり、盆の時期に行われる死者供養の行事でもある。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
山寺夜行念仏の習俗は、8月6日夜から7日朝にかけて、山形市の立石寺で高擶【たかだま】夜行念仏講、山寺夜行念仏保存会の人たちによって行われる。 6日夜、立石寺根本中堂に念仏をあげた後、奥の院に向かって出発し、念仏堂、姥堂、仁王門、山上の四塔頭、そして奥の院、多聖場(塔婆供養所)の順に巡って念仏を唱えた後、奥の院で泊まる。 翌7日朝5時からの奥の院のお勤めに参列した後、多聖場、開山堂、磐司祠、五大堂を巡って念仏をあげて山を下り、立石寺本坊、滝不動の順に念仏をあげて終わる。 この夜行念仏は、かつては村山盆地一帯で盛んに行われており、現存する夜念仏供養塔の造立銘などから、明治時代までは庄内地方や秋田県境の遊佐町周辺でも盆の行事として行われていたことが知られている。 現在、夜行念仏は、地元の山寺地区の山寺夜行念仏保存会と、天童市の高擶夜行念仏講が伝承しているのみである。高擶夜行念仏講は、川東総取締と呼ばれ、この講が奥の院に向かって登り出さないうちは他の講中は登り始めないものだったという。現在、奥の院で夜を明かすのは山寺夜行念仏保存会だけで、高擶夜行念仏講は奥の院で念仏をすませると山を下りる。 また、現在は、念仏講の人たちだけの行事になっているが、昭和50年頃まではオツヤモウシといって講中以外の人たちもオツヤキャクとして奥の院に上がってきたという。当時は夜行念仏の日はオツヤキャクのために、性相院、中性院、金乗院、華蔵院の4つの塔頭が開放され、部屋や廊下は大勢のオツヤキャクであふれ、押入まで人が入って夜を明かしたという。オツヤキャクはここで夜行念仏講の人たちが登ってくるのを待ち、到着すると賽銭をあげ、講の人たちの金剛杖や笠についているシデをもらった。 このシデで体を拭いて川に流すと無病息災になるとか、頭をなでると頭病み除けになる、子どもをなでてやると虫封じになるといわれていた。 7日朝に夜行念仏が終わると、日を改めてカサハズシと称される直会が行われ、その年の夜行念仏が終わると考えられている。 現在の山寺夜行念仏保存会が昭和46年7月に山寺地区の有志によって結成される以前の念仏講は、師匠と呼ばれる先生を中心とした師弟関係で結びついた組織であった。現在の保存会と念仏講の講員は木綿の着物に黒袴、足元は草履に黒足袋を履く。この上に白木綿で作ったオユズリを着用するが、これは加入して3年を経なければ着用できないという決まりがある。また、山寺夜行念仏保存会では加入して3年未満の者は、頭に被る笠に14本の幣を下げなければならないとされている。 山寺夜行念仏の習俗は、古くは各地で盛んに行われていた夜念仏、六斎夜念仏の系譜に連なる行事である。盆の時期に行われてきた死者供養の行事であると考えられ、残されている石碑などからかつては山形県内各地で行われていたことがわかるが、現在2つの団体に限られるなど衰退の恐れがあることから、早急に記録を作成する必要がある。 (※解説は選択当時のものをもとにしています)