国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
主情報
名称
:
吉田の火祭
ふりがな
:
よしだのひまつり
吉田の火祭
写真一覧▶
解説表示▶
種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年8月26・27日(※選択当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
記録:『吉田の火祭』(富士吉田市教育委員会・平成17年3月31日)
※この行事は平成24年3月8日に重要無形民俗文化財に指定されています。
選択番号
:
1
選択年月日
:
2000.12.25(平成12.12.25)
追加年月日
:
選択基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
選択基準2
:
選択基準3
:
所在都道府県、地域
:
山梨県
所在地
:
保護団体名
:
北口本宮冨士浅間神社
吉田の火祭
解説文:
詳細解説
この行事は、富士北麓に位置する北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の祭りで、富士山の夏山登拝の終わりを告げるお山仕舞いの祭りである。26日は、諏訪神社の神輿と、オヤマサンなどと呼ばれる富士山型の神輿が御旅所まで巡行する。神輿が御旅所に着くと、上吉田の御師街に立てられた大松明が点火され、次いで沿道の家々の井桁積松明や富士山5合目から上の山小屋でも篝火が焚かれる。人びとは大松明の下を通り抜け、富士講の人たちは宿坊の前でオガミをあげるなど講の行事を行う。27日は、御旅所から神輿が神社へ還御する。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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吉田の火祭
吉田の火祭
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吉田の火祭
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吉田の火祭
解説文
この行事は、富士北麓に位置する北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の祭りで、富士山の夏山登拝の終わりを告げるお山仕舞いの祭りである。26日は、諏訪神社の神輿と、オヤマサンなどと呼ばれる富士山型の神輿が御旅所まで巡行する。神輿が御旅所に着くと、上吉田の御師街に立てられた大松明が点火され、次いで沿道の家々の井桁積松明や富士山5合目から上の山小屋でも篝火が焚かれる。人びとは大松明の下を通り抜け、富士講の人たちは宿坊の前でオガミをあげるなど講の行事を行う。27日は、御旅所から神輿が神社へ還御する。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
吉田の火祭は、富士北麓に位置する富士吉田市上吉田の北口本宮冨士浅間神社とその摂社である諏訪神社の祭りで、毎年8月26・27日に行われる。7月1日の富士山のお山開きに対し、夏山登拝の終わりを告げるお山仕舞いの祭りでもあり、関東一円を中心に広く分布する富士講の人びとなどは、火祭までに登拝を済ませておくものといわれている。祭りのなかで数多くの大松明を燃やすことから、火祭と呼び慣わされているが、正式には鎮火祭と呼ばれ、26日が宵宮、27日が本祭である。 この祭りは、『甲斐國志』に「諏訪明神上吉田村例祭七月二十一日(中略)其夜此屋皆篝松を焼く」とあるように、本来は上吉田の氏神であった諏訪神社の大祭であったが、富士信仰の隆盛とともに浅間神社の社域が拡大して諏訪神社を取り込み、浅間神社が村氏神、諏訪神社はその境内社となり、現在は両社の祭りとして伝承されているものである。 祭日は近世以来、幾度かの変遷を経ており、『富士浅間神社社誌』によれば、大正3年以後現在の期日となる。 火祭の由来については、浅間神社の祭神である木花開耶姫命が産屋に火を放ち、猛火の中で無事に出産をしたという神話に因むなど諸説が伝えられている。 祭りの準備や運営は、上吉田の上宿・中宿・下宿・中曽根の4つの地区からそれぞれ選ばれた世話人と呼ばれる14名の祭典世話係が中心となって行う。世話人になれるのは、42歳の厄年前の男性に限られている。 26日には、諏訪神社の神輿と、オヤマサンあるいは富士御影と呼ばれ、重量約1.5㌧もある浅間神社の富士山型の神輿が中宿の御旅所まで氏子域を巡行する。巡行の際には、オヤマサンは諏訪神社の神輿を決して追い越してはならないとされている。2つの神輿が御旅所に収められると、上吉田の御師街の通りに大松明が立てられ、世話人によって次々と点火される。 大松明は、結【ゆい】松明とも呼ばれ、高さが約3.5~4.5㍍、直径が約60~90㎝程の大きさで、唐松や赤松の薪を笹板と呼ばれる板で樽のように囲み、荒縄で縛って筒状に作ったものである。かつては、御師や富士講社によって奉納されていたが、現在は地域の民間企業などが主な奉納者である。平成12年度は70本以上の大松明が奉納された。 一方、沿道の家々では、赤松などの薪を家の入口や路上に高く積み上げて井桁積【いげたづみ】松明をつくる。路上の大松明に火が点されると、これを合図に各家の井桁積松明にも次々と火がつけられ、また富士山の五合目から上の山小屋でも篝火が焚かれ、山と町とが一体となっての火祭となる。人びとは火の粉をあびながら大松明の下を通り抜け、富士講の人たちは師檀関係にある御師の宿坊の前で、先達を中心に燃えさかる松明を取り囲んでオガミをあげるなど講の行事を行う。 その年に不幸のあった家は不浄とされ、決して祭りの火を見てはならず、「テマ(手間)に出る」といって町外の親戚の家などに逃れたり、クイコミといって家の戸を閉め切って謹慎する。近隣の家々は、その家に「テマ見舞い」としてうどん粉やそば粉を贈り、翌朝には「テマ迎え」といって町内に帰ってくる者を下宿の金鳥居まで迎えに行く。 翌27日は、御旅所から2つの神輿が神社へ還御し、祭りは終了となる。 この行事は、上吉田の氏神であった諏訪神社の大祭が富士信仰の隆盛とともに浅間神社の祭りともなったもので、上吉田4地区の氏子を中心としながらも、各地の富士講の人たちも参加する富士信仰に基づく祭りである。また、火に関する禁忌が厳格に守られているなど、わが国の民間信仰や祭りのあり方を理解する上で貴重である。しかし、富士信仰の衰退や観光化の影響等によって大きな変貌が危惧されることから、早急に記録を作成する必要がある。 (※解説は選択当時のものをもとにしています)