国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
辰巳用水
附土清水塩硝蔵跡
ふりがな
:
たつみようすいつけたりつっちょうずえんしょうぐらあと
辰巳用水(下流部)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
近世
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
平成25年3月27日追加指定及び名称変更
告示番号
:
12
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2010.02.22(平成22.02.22)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2013.03.27(平成25.03.27)
指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
石川県
所在地(市区町村)
:
石川県金沢市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
辰巳用水(下流部)
解説文:
詳細解説
寛永9年(1632年)に完成した、金沢城への水利を主な目的とする用水。犀川上流部から取水し、城まで延長役11㎞に及ぶ。用水は沿線の灌漑、新田開発にも役だった。今も当時の隧道や開渠が良好に残り、近世の土木技術を知る上で貴重である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
添付ファイル
なし
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辰巳用水(下流部)
辰巳用水(取水口)
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辰巳用水(下流部)
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辰巳用水(取水口)
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解説文
寛永9年(1632年)に完成した、金沢城への水利を主な目的とする用水。犀川上流部から取水し、城まで延長役11㎞に及ぶ。用水は沿線の灌漑、新田開発にも役だった。今も当時の隧道や開渠が良好に残り、近世の土木技術を知る上で貴重である。
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詳細解説
辰巳用水は、江戸時代はじめに、金沢城の水利を改善する目的で加賀藩が造営した用水である。造営の目的は、寛永の大火を契機とする金沢城の防火機能の向上、水堀化による防御機能の向上及び城内庭園の泉水供給等と考えられ、設計・施工には小松の町人板屋兵四郎があたったと伝えられている。造営年代については、『三壺聞書』等により寛永9年(1632)とするのが定説であるが、寛永6年(1629)とする説もある。用水の江浚い等の日常管理は、用水沿いの村々に委ねられたが、大規模な改修は藩の普請会所が担当した。用水の余水は周辺の新田開発に使われた。 用水の取水は、金沢城の東南に位置する上辰巳町の犀川左岸の「雉(又は鶏)口」であったが、江戸時代後期に約130m上流の「めおと滝」対岸の古川口、さらに幕末安政2年(1855)にはさらに約600m上流の現取水口である「東岩」に付け替えられた。また、18世紀末には上流部の開渠水路部分の隧道化が開始された。中・下流部は開渠水路であり、小立野台地の河岸段丘西側斜面を流下して、最下流部では現在の兼六園から百間堀で隔てられた金沢城へ導水するため木樋を埋設した、いわゆる逆サイフォンの原理を利用し、二の丸まで揚水するものであった。現在、用水は延長約11kmで、特別名勝兼六園に至っている。 金沢市は、平成17年度から20年度まで、辰巳用水の詳細測量、発掘調査、絵図調査等、総合調査を実施した。上流部は、江戸時代の状態が最も良好に保存されている。このうち取水口から約4.6km分は河岸段丘斜面を穿った隧道である。平均幅約1.7m、同高さ約2~2.6mの断面馬蹄形を呈し、壁面には約20~30m間隔で段丘崖に向かって横穴が開口する。また、発掘調査によって隧道に並行して走る開渠跡が見つかった。開渠跡は幅2.8m、深さ約0.74m、断面は逆台形を呈していた。18世紀末には用水の隧道化が始まり、安政2年に東岩に取水口が移された段階では、「辰巳用水東岩取水口絵巻」によれば、延伸部がほぼ隧道で通水されており、長大な隧道がほぼ完成した。また、基盤層が軟弱なところでは、延長約260mの三段石垣に代表される用水法面保護のための石垣群を築いている。中流部は、近代以後の改修もあるが、ほぼ開渠水路として路線を維持し、下流部は天徳院周辺等を除くと暗渠化し、かつての流路や形状は失われている状況である。 このように、辰巳用水は、江戸時代に金沢城の水利を改善する目的で加賀藩が造営した用水であり、江戸時代の土木技術を知る上で貴重なことから、上流部、中流部を中心とした延長約8.7kmを史跡に指定し、その保護を図ろうとするものである。 平成25年追加指定分 今回、追加指定を図るのは、加賀藩が辰巳用水の水流を利用して黒色火薬を製造した土清水塩硝蔵跡(つつちようずえんしようぐらあと)であり、辰巳用水の中流部、小立野台地に位置する。加賀藩では、当初、金沢城内で火薬製造を行っていたが、その後、城外に施設を設けて火薬製造を行うようになった。土清水塩硝蔵は、万治元年(1658)に設置され、以後、加賀藩の黒色火薬はこの地で製造された。幕末期の元治元年(1864)には施設の増改築が行われ、慶応4年(1868)に洋式火薬製造に対応した新施設が竣工した。明治初年頃に操業停止したものと推測される。金沢市教育委員会が平成19年度から22年度にかけて発掘調査を行い、硝石御土蔵(しようせきおんどぞう)跡、搗蔵(つきぐら)跡、縮具所(しゆくぐしよ)跡、硝石置場跡、道路跡、堀跡等を検出した。搗蔵跡では、建物内部の水路跡及び搗臼跡と見られる遺構が確認され、辰巳用水から引き込んだ水流で水車を回し、その動力によって杵を動かして原材料を粉末加工していたことが考古学的に確認された。出土遺物として、硝石御土蔵跡を中心に瓦が大量に出土し、桟瓦がほとんど含まれず、平瓦、丸瓦、軒平瓦(梅鉢紋)、軒丸瓦が大半を占めており、塩硝蔵跡の主要な施設は本瓦葺であったことが推測される。 このように、土清水塩硝蔵跡は、加賀藩が経営した黒色火薬製造施設である。これまで絵図等で想定されていた、黒色火薬製造に辰巳用水の水流が利用されていたことが発掘調査によって確認され、塩硝蔵跡と辰巳用水の密接な関連が明らかになった。辰巳用水の多様な役割を理解する上で重要なことから、追加指定するともに名称を変更し、保護の万全を図ろうとするものである。
関連情報
指定等後に行った措置
2013.03.27(平成25.03.27)
関連情報
指定等後に行った措置
異動年月日
:
2013.03.27(平成25.03.27)
異動種別1
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追加指定
異動種別2
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名称変更
異動種別3
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異動内容
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