国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
常陸国府跡
ふりがな
:
ひたちこくふあと
常陸国府跡(政庁の正殿跡)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
古代
年代
:
7世紀末~11世紀
西暦
:
面積
:
28540.89 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
123
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2010.08.05(平成22.08.05)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
茨城県
所在地(市区町村)
:
茨城県石岡市総社1丁目
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
常陸国府跡(政庁の正殿跡)
解説文:
詳細解説
常陸国府跡の中心的な建物群と考えられる施設を指定する。建物群は7世紀末から11世紀にかけての変遷過程が認められる。国庁に比定される一辺100mの区画は、8世紀前半からおよそ300年は正殿の中軸線が踏襲されており高い計画性をもつ。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
常陸国府跡(政庁の正殿跡)
常陸国府跡(出土した墨書土器)
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常陸国府跡(政庁の正殿跡)
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常陸国府跡(出土した墨書土器)
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解説文
常陸国府跡の中心的な建物群と考えられる施設を指定する。建物群は7世紀末から11世紀にかけての変遷過程が認められる。国庁に比定される一辺100mの区画は、8世紀前半からおよそ300年は正殿の中軸線が踏襲されており高い計画性をもつ。
詳細解説▶
詳細解説
常陸国府跡は、霞ヶ浦に注ぐ山王川と恋瀬川によって形成された石岡台地上に位置する古代の官衙遺跡である。その北東約0.8kmには特別史跡常陸国分寺跡、北約1.3kmには特別史跡常陸国分尼寺跡が存在し、当該地は有力な国府推定地とされてきた。昭和45年の石岡市教育委員会による石岡小学校の建替に伴う発掘調査の結果、大型の南北棟建物等が検出され、瓦塼類も出土したことから、国府跡として認識されるようになった。平成10年、11年には小学校の施設建設に伴う発掘調査が行われたが、大型建物等が検出されたことから、施設は小学校敷地外に移され、遺構が現地保存された。平成13年から19年には、石岡市教育委員会が遺跡の範囲・内容を確認する発掘調査を実施し、国府跡の様相が明らかとなった。 遺構は、7世紀末から11世紀にかけての変遷が認められる。7世紀末には、桁行(けたゆき)6間の身舎(もや)の東に廂をもつ南北棟を正殿とし、東西棟の脇殿、南北棟の前殿が整然と配される。8世紀前半には、建物配置が大きく変わり、塀で囲まれた一辺約100mの区画内に、東西棟の正殿、南北棟の脇殿等が「コ」字形に配されるようになる。この区画と配置は、若干の拡張や縮小はあるものの、基本的に9世紀後半まで存続する。8世紀前半の正殿は桁行(けたゆき)6間、梁行(はりゆき)3間の身舎(もや)の南に廂をもつ建物である。脇殿は正殿の中軸線から東西対称に約42m離れた位置で、主軸を揃えた南北棟が2棟直列する。8世紀中ごろから9世紀後半には、この区画内は主要な建物配置や中軸線を継承しつつ、正殿が桁行(けたゆき)7間に拡張され、楼閣建物や前殿等の建物が整然と配される。この時期には一部の建物が礎石建ちとなるほか、この区画の西側に接し、東西棟の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が3棟建てられる。うち、北側の建物は、桁行11間、梁行2間の身舎に南北廂をもつ大規模なものである。 10世紀以降は、塀で囲まれた区画はなくなるが、従来の正殿の中軸線を踏襲した位置に、東西棟の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)1棟が配され、1回の建て替えが認められる。このほか、この区画の約55m北側には幅約4mの8世紀代の東西溝があり、これらの施設群全体の北辺を区画する施設と考えられる。出土遺物としては、国分寺、国分尼寺出土と同笵(どうはん)の軒瓦(のきがわら)、磚(せん)、「国」の墨書をもつ土器や円面硯(えんめんけん)等がある。 これらのうち、8世紀前半に成立する塀で囲まれた区画は、一辺約100mという大規模なもので、その内部に「コ」字形に配された正殿、脇殿等が並ぶ。正殿の中軸線はおよそ300年間にわたり踏襲され、高い計画性が認められる。また、西側に隣接する建物群も同様な規格をもつ大規模なものである。こうした規模、配置の特徴から、これらは国府の中心的な施設群と考えられ、この区画は8世紀前半以降の国庁、西側に隣接する建物群は国庁に附属する曹司(ぞうし)に比定される。 このように、常陸国府跡は中心部分の建物配置がほぼ判明し、7世紀末から11世紀にわたり、高い計画性をもつ建物群の変遷過程が明らかとなった。その構造は、古代の国府の実態を良く示し貴重である。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。