国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
岐阜城跡
ふりがな
:
ぎふじょうあと
岐阜城全景
写真一覧▶
地図表示▶
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
戦国
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
11
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2011.02.07(平成23.02.07)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
岐阜県
所在地(市区町村)
:
岐阜県岐阜市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
岐阜城全景
解説文:
詳細解説
戦国期、織田信長が斎藤氏を破って奪い、天下統一の拠点とした城跡で、山上の城郭と山麓の居館を中心に金華山全体を天然の要害として機能させた山城跡。フロイスの書簡にも登場し、安土城を出発点とする近世城郭の成立を考えるうえで重要な城跡。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
岐阜城全景
山麓部居館跡
山頂部石垣
巨石列
写真一覧
岐阜城全景
写真一覧
山麓部居館跡
写真一覧
山頂部石垣
写真一覧
巨石列
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
解説文
戦国期、織田信長が斎藤氏を破って奪い、天下統一の拠点とした城跡で、山上の城郭と山麓の居館を中心に金華山全体を天然の要害として機能させた山城跡。フロイスの書簡にも登場し、安土城を出発点とする近世城郭の成立を考えるうえで重要な城跡。
詳細解説▶
詳細解説
岐阜城跡は、稲葉山城、井ノ口城とも呼ばれ、戦国時代に美濃国を治めた斎藤氏の居城として、次いで織田信長が居城とした城跡である。山上の城郭と山麓の居館を中心に金華山(標高329メートル)全体を天然の要害として機能させている。 築城は建仁年間(1201~1204)と伝えられるが、明確に城郭として使われたのは斎藤道三以降で、山麓の井ノ口の地に城下町を経営したとされている。永禄10年(1567)、織田信長がこれを奪取した。信長は岐阜城に9年間在城し、その間、「天下布武」印を使用し、永禄11年(1568)には足利義昭を擁して京都に上るなど、ここを本拠に天下統一を目指した。また、永禄12年(1569)、イエズス会のポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが岐阜城に信長を訪ね、その時の様子が書簡の形で残されている。同じ頃、京都の公家山科言継(ときつぐ)も信長を訪ねている。信長が、安土城に移った後も拠点的な城郭として機能するが、関ヶ原の戦いにおいて当時の城主織田秀(ひで)信(のぶ)が西軍に属したことから、東軍の攻撃を受けて落城し、その後、徳川家康によって廃された。近世には尾張藩の「御(お)山(やま)」として管理がなされ、明治時代に宮内省御料局(明治41年、帝室林野管理局に改称)の管轄となった。その後、山頂部に模擬天守が建造されたり、ロープウェーが敷設されるなど一部改変がなされた。また、山麓部には明治21年(1888)に開園した岐阜公園がある。 山上部については、岐阜市教育委員会等による調査により、尾根線上に戦国時代と考えられる石垣や井戸、人為的な平坦面等が多数残されていることが確認されている。 一方、山麓部については、昭和59年(1984)から現在まで断続的に、岐阜市教育委員会及び財団法人岐阜市教育文化振興事業団による発掘調査が実施され、一部は、織田信長の居館跡として史跡整備がなされている。平成19年度からの発掘調査では、巨石列とともに岩盤等の自然地形も利用して館への導入を図っていることや、大規模な造成を行い、少なくとも4・5段以上の雛壇状の平坦面をつくりだしていること、さらに庭園等も設えていることなど、斎藤道三の段階の状況は不明な点が多いものの、その城をベースに、石造りの城を志向した様子がより明確化されるに至った。焼けた壁土や2時期にわたる火災の痕跡も確認されている。 山上、山麓部ともにフロイスの書簡に登場する。そこには、「城」「堡塁」「石垣」「広場」「宮殿」「庭」「池」等の具体的な記述があり、発掘調査で検出された庭園遺構が、フロイスのいう「庭」のひとつである可能性や、四階からなる「宮殿」は、壇状の平坦面にまたがる構造の建物である可能性など、今後の発掘調査等の成果との対比が注目される。 このように、岐阜城跡は、戦国期、天下統一を目指す織田信長が、斎藤氏を破って奪い、9年間居城とした山城跡である。近世城郭の成立を考える上で重要な城跡であることから、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。