国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
西南戦争遺跡
ふりがな
:
せいなんせんそういせき
じんばは濡れる二ノ坂へ向う道
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
明治
年代
:
西暦
:
面積
:
193616.78 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
39
特別区分
:
指定年月日
:
2013.03.27(平成25.03.27)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
熊本県
所在地(市区町村)
:
熊本県熊本市・玉名郡玉東町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
じんばは濡れる二ノ坂へ向う道
解説文:
詳細解説
西南戦争は、明治10年(1877)南九州一帯で行われた国内最大・最後の内戦である。薩摩軍と政府軍の激戦の場となった田原坂(たばるざか)をはじめ、横(よこ)平山(ひらやま)、半(はん)高山(こうやま)・吉(きち)次(じ)峠(とうげ)、砲台及び官軍墓地等が良好に残り、極めて貴重である。明治以後の戦跡に関する本格的な史跡指定としては初めてとなる。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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じんばは濡れる二ノ坂へ向う道
西南戦争遺跡二俣瓜生田官軍砲台跡
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じんばは濡れる二ノ坂へ向う道
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西南戦争遺跡二俣瓜生田官軍砲台跡
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解説文
西南戦争は、明治10年(1877)南九州一帯で行われた国内最大・最後の内戦である。薩摩軍と政府軍の激戦の場となった田原坂(たばるざか)をはじめ、横(よこ)平山(ひらやま)、半(はん)高山(こうやま)・吉(きち)次(じ)峠(とうげ)、砲台及び官軍墓地等が良好に残り、極めて貴重である。明治以後の戦跡に関する本格的な史跡指定としては初めてとなる。
詳細解説▶
詳細解説
西南戦争遺跡は、明治10年(1877)、鹿児島士族層を中心とする士族が政府に反旗を翻し、九州中南部一帯を舞台に行われた国内最大・最後の内戦に関わる遺跡である。明治6年の征韓論の政変以後、一部士族が佐賀・熊本・秋月(あきづき)・萩で反乱を起こしたが、これらの反乱の最後として、明治10年2月、私学校生徒等が西郷隆盛を首領として蜂起し、熊本等の士族や徴募兵も呼応した。西郷軍は、熊本城の政府軍との攻防戦、田原坂の激戦で敗北し、大分・宮﨑・鹿児島を敗走、9月24日に西郷が城山で自刃して収束した。明治政府が近代国家としての権力基盤を確立するなど、日本史上、著名な戦争である。 このうち、豊前街道(ぶぜんかいどう)や三池往還(みいけおうかん)・吉次往還(きちじおうかん)が通る熊本県北部の熊本市植木(うえき)・玉東(ぎよくとう)町地域では、熊本城援軍のため南下する政府軍と、これを阻止しようとする西郷軍が、2月下旬から4月初にかけて激突した。政府軍は木葉(このは)に本営を設置し、3月4日より、西郷軍が防塁等を築いて籠もる田原坂(たばるざか)に侵攻を開始した。政府軍は二度に及ぶ総攻撃をかけたが成果が上がらず、田原坂の西側の二俣(ふたまた)台地に砲台を築き、側面から砲撃を加えて西郷軍に打撃を与え、3月20日の総攻撃でようやく田原坂を陥落させた。この間、田原坂を見渡すことができ、二俣砲台等に近い横平山(よこひらやま)(標高144メートル)は、両軍による争奪の場となり、吉次往還では、三ノ岳と半高山(はんこうやま)に挟まれた吉次峠(きちじとうげ)において両軍の激戦が行われた。田原坂陥落後も植木では市街戦が続いたが、ついに西郷軍は敗退、4月14日には政府軍が熊本城に入城し、西郷軍は人吉に落ち延びた。戦時、政府軍は負傷者を収容し、治療する施設として正念寺(しようねんじ)等に大繃帯所(だいほうたいしよ)を設置した。戦没した政府軍兵士等は周辺に仮埋葬され、その後高月(たかつき)や宇蘇浦(うそうら)等の官軍墓地(かんぐんぼち)に埋葬された。明治13年には、陸軍省によって、現在の田原坂公園内に崇烈碑(すうれつひ)が建立された。 今回指定を行うのは、田原坂古戦場(熊本市域)、二俣砲台跡、横平山古戦場、半高山・吉次峠古戦場、正念寺、高月官軍墓地、宇蘇浦官軍墓地(以上、玉東町域)である。玉東町及び植木町(現・熊本市)教育委員会では、平成21年度から24年度にかけて発掘調査、文献調査等を実施した。田原坂古戦場は、田原坂本道(延長約1,160メートル)を中心とする戦場跡である。田原坂入口の中谷川に架かる豊岡(とよおか)の眼鏡橋は、享和2年(1802)築造の石製の単一アーチ橋である。坂は一ノ坂口で標高25.9メートル、三ノ坂上で106.9メートル、道幅4メートル程度であり、旧状を良く残し、道は幾度も屈曲し、昼なお暗く、両壁が高い凹道が続く場所がある。三ノ坂上は戦争当時、西郷軍が布陣した場所である。現在、田原坂公園として整備されているが、地形の改変を受けていない部分も多く、当時の陣地構築状況等を知る上で重要である。また、崇烈碑は石灰岩製で、台座を含めた総高は6メートルである。撰文・篆額は征討総督・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)で、碑文には戦争の経緯、田原坂激戦の様子が記されている。 二俣の瓜生田(うりゆうだ)・古閑(こが)砲台跡は、田原坂と谷を挟んだ西側の台地上に所在する。金属探知機を用いた表面探査の結果、大砲を発射させる際に使用する摩擦管等が出土した。瓜生田砲台では、砲台跡の硬化面や大砲の轍と考えられる遺構、廃棄土坑等を検出した。横平山古戦場では、山の北側斜面一帯で銃弾や薬莢等が多数出土した。山頂の塹壕跡(ざんごうあと)からは多数の薬莢が出土し、政府軍・西郷軍の戦闘の具体相が明らかとなった。半高山・吉次峠古戦場においても銃弾・薬莢(やっきょう)・砲弾等の遺物を多数確認し、山頂部では戦闘に伴い築造された土坑状の掘り込み・盛土遺構を検出した。 正念寺は、承応3年(1654)創建とされる真宗寺院である。戦時、政府軍の大繃帯所として負傷者の治療が行われ、境内に戦死者の仮埋葬も行われた。本堂・庫裏等は建て替えられ旧状を留めていないが、戦争当時の山門が三池往還に面して現存し、銃弾の痕跡も残る。戦争の傷跡を留める大繃帯所の遺構として貴重である。 高月官軍墓地は、正念寺の西側、三池往還沿いに立地し、980柱を葬る墓地である。天草砂岩製の墓石に、玉東・植木地域で戦死した兵士階級、氏名、出身地、所属部隊、戦没地点を刻む。宇蘇浦官軍墓地は木葉山の中腹に位置し、399柱を葬る墓地である。基本的には高月墓地と同様であるが、安山岩製の墓石による警視局64柱の戦死者も含む。 このように、西南戦争遺跡は、我が国最後の内乱として、明治政府が近代国家としての権力基盤を確立するなど、日本史上著名な戦争に関わる遺跡である。発掘調査等によって、田原坂古戦場をはじめとする各遺構が良好に遺存することが確認された。近代の政治・軍事を知る上で重要である。よって、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。