国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
大隅正八幡宮境内及び社家跡
ふりがな
:
おおすみしょうはちまんぐうけいだいおよびしゃけあと
大隅正八幡宮及び社家跡(大隅正八幡宮(鹿児島神宮))
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
古代,中世
年代
:
西暦
:
面積
:
344331.5 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
142
特別区分
:
指定年月日
:
2013.10.17(平成25.10.17)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
鹿児島県
所在地(市区町村)
:
鹿児島県霧島市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
大隅正八幡宮及び社家跡(大隅正八幡宮(鹿児島神宮))
解説文:
詳細解説
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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大隅正八幡宮及び社家跡(大隅正八幡宮(鹿児島神宮))
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大隅正八幡宮及び社家跡(大隅正八幡宮(鹿児島神宮))
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詳細解説
大隅正八幡宮は、鹿児島県の中央部、錦江湾に流れ込む天降川を望む丘陵上に立地する。正八幡宮の東方約1.5キロメートルの天降川右岸には、中世の川湊が存在したことが知られ、その対岸には府中の地名が残り、大隅国府が所在したと推定されている。 社伝によると和銅元年(708)の建立で、『延喜式』には、鹿児嶋神社の名で薩摩、大隅、日向の中で唯一の大社として記載されている。平安時代に、宇佐八幡宮が九州各地に別宮を作った頃に、八幡神が勧請され、それによって、「八幡正宮」と呼称されるようになったと考えられている。同時に、宇佐八幡宮の弥勒寺に倣って、弥勒院が現在の社殿から東約300メートルの地点に建立された。また、院政期には、諸国の神祇が一宮、惣社を中心として整えられたが、大隅国では正八幡宮が一宮として保護された。 鎌倉時代には、源頼朝の庇護等により、勢力を拡大する。建久8年(1197)の『建久図田帳』によると、大隅国の約3000町の田のうち、正八幡宮領は約1296町に及んでいる。その後、元軍調伏の祈祷を行ったことや、『八幡愚童訓』に見える八幡神の起源は大隅正八幡宮であると主張することなどを通じて、多くの所領の寄進を受け、それを基に、正八幡宮の前面に社家や御家人の居館、寺院などからなる「宮内」と呼ばれる町が形成され、整備された。宮内には、別当寺も含め多くの神官・神人・僧侶が居住し、「四社家」「十家」又は「一家」「衆徒十五坊」「殿守十二家」「四十七家」「隼人十八家」など百十家が知られている。中でも世襲の桑幡・留守・沢・最勝寺の四社家は、それらを統括する立場にあった。 これらに関係する発掘調査は、平成6年から隼人町(現霧島市)教育委員会によって実施されている。現境内においては、中国製の青磁・白磁・青花・陶器やタイ産の壺などが出土している。また、正八幡宮の所有品の中には、14から15世紀前半の中国やタイの陶磁器が多数あることから、鎌倉時代から室町時代にかけて、正八幡宮が中国や南方の文物を安定して入手できる立場にあったことが知られる。さらに、史料からは、宇佐八幡宮や石清水八幡宮、京都、鎌倉などとの交流もうかがわれるなど、正八幡宮が異文化交流の担い手として重要な役割を果たしていたことがわかる。 弥勒院については、池状遺構、溝、根石を持つ柱穴などが検出された。出土遺物には、多量の中国製陶磁器やタイ産の壺、ベトナム産陶器、多量の土師器などがあり、越州窯青磁や須恵器が一定量、含まれていることから、創建時期は10世紀と考えられる。 社家跡のうち桑幡氏館跡は、正八幡宮の参道を挟み、弥勒院跡と対峙している。桑幡氏の本姓は、息長姓であり、『平家物語長門本』に第53代息長清道の名が見える。館は、幅約4メートル、深さ約3メートルの堀によって、南北約90メートル、東西約100メートルの方形に区画され、堀の内側には土塁が巡っていたと考えられる。出土遺物は、正八幡宮等と同様、中国や南方の陶磁器類が多数見られるほか、畿内産の瓦器椀や土釜等も出土している。 留守氏館跡は、正八幡宮の東約600メートルの位置にある。現在でも、高さ約3メートル、幅約11メートルの土塁が残り、幅4〜7メートル、深さ3〜4メートルの堀が検出されており、このことから、館の規模は、東西約70メートル、南北約100メートルと推定される。 沢氏館跡は、正八幡宮の参道東端から、北東約400メートルの台地に立地する。発掘調査では幅4〜5メートル、深さ2〜3.5メートルのL字の堀が検出されている。天降川の氾濫原に向けて急激に落ち込む台地縁辺部を、この堀で区画することにより、ほぼ正方形の屋敷地を造っている。また、敷地の西側には、沢家の墓所がある。44基の板碑に加え、延応元(1239)年の石塔や五輪塔、嘉禎3(1239)年銘の自然石柱の他、中国から搬入されたと考えられる薩摩塔がある。 最勝寺氏館跡は、沢氏館跡の南の台地上に位置する。発掘調査で検出された堀から、館の規模は長辺85メートル、短辺メ60ートルと推定される。 これら四社家はいずれも、平安時代後半に成立したと考えられ、また、保存状態が良好であり、神官御家人の館の構造を知ることができる。 以上のように、大隅正八幡宮と弥勒院、四社家は、史料や出土遺物から、京都や鎌倉、琉球や東南アジアとも交流を行う異文化交流の場として機能していたことがわかる。また、一宮を中心に形成、発展した中世の地割りが良好な状態で残るなど、中世都市の形成事情や過程を知る上でも重要である。よって、大隅正八幡宮と弥勒院跡、桑幡・留守・沢・最勝寺の四つの社家を、大隅正八幡宮境内及び社家跡として一体的に捉え、条件の整ったところを史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。