国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
上野国佐位郡正倉跡
ふりがな
:
こうずけのくにさいぐんしょうそうあと
上野国佐位郡正倉跡(倉庫群調査風景)
写真一覧▶
地図表示▶
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
奈良〜平安
年代
:
西暦
:
面積
:
91072.93 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
137
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2018.02.13(平成30.02.13)
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
群馬県
所在地(市区町村)
:
群馬県伊勢崎市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
上野国佐位郡正倉跡(倉庫群調査風景)
解説文:
詳細解説
上野国佐位郡正倉跡は,渡(わた)良(ら)瀬川(せがわ)によって形成された大間々扇状地の西端に所在する。遺跡の北及び北東部には複数の湧水点が所在し,遺跡はこれらの湧水から流れる川によって舌状に解析された微高地上に立地している。平成14~25年度まで,伊勢崎市教育委員会によって19次にわたる確認調査が実施された。これにより,大溝によって区画された範囲の中に,礎石建物15棟,掘建柱建物40棟以上の倉庫群が検出された。存続時期は7世紀後半から10世紀前半にかけてである。平成17年の調査では,八角形倉庫が検出され,さらにこの建物が『上野(こうずけの)国交代(くにこうたい)実録帳(じつろくちょう)』の佐(さ)位(い)郡(ぐん)正倉(しょうそう)の「八面(はちめん)甲倉(こうそう)」と一致することが分かり,これにより上野国佐位郡正倉跡であることが確実となった。このように上野国佐位郡正倉跡は,文献と発掘調査によって検出された遺構が一致することによって,遺跡の内容が分かった事例として貴重である。また,古代の文献の記載に一致する遺構が良好に保存されており,古代官衙遺跡の在り方を考える上で極めて重要であることから,史跡に指定して保護を図るものである。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
上野国佐位郡正倉跡(倉庫群調査風景)
上野国佐位郡正倉跡(八角形倉庫)
上野国佐位郡正倉跡(倉庫跡)
写真一覧
上野国佐位郡正倉跡(倉庫群調査風景)
写真一覧
上野国佐位郡正倉跡(八角形倉庫)
写真一覧
上野国佐位郡正倉跡(倉庫跡)
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
解説文
上野国佐位郡正倉跡は,渡(わた)良(ら)瀬川(せがわ)によって形成された大間々扇状地の西端に所在する。遺跡の北及び北東部には複数の湧水点が所在し,遺跡はこれらの湧水から流れる川によって舌状に解析された微高地上に立地している。平成14~25年度まで,伊勢崎市教育委員会によって19次にわたる確認調査が実施された。これにより,大溝によって区画された範囲の中に,礎石建物15棟,掘建柱建物40棟以上の倉庫群が検出された。存続時期は7世紀後半から10世紀前半にかけてである。平成17年の調査では,八角形倉庫が検出され,さらにこの建物が『上野(こうずけの)国交代(くにこうたい)実録帳(じつろくちょう)』の佐(さ)位(い)郡(ぐん)正倉(しょうそう)の「八面(はちめん)甲倉(こうそう)」と一致することが分かり,これにより上野国佐位郡正倉跡であることが確実となった。このように上野国佐位郡正倉跡は,文献と発掘調査によって検出された遺構が一致することによって,遺跡の内容が分かった事例として貴重である。また,古代の文献の記載に一致する遺構が良好に保存されており,古代官衙遺跡の在り方を考える上で極めて重要であることから,史跡に指定して保護を図るものである。
詳細解説▶
詳細解説
上野国佐位郡正倉跡は、古代佐位郡の正倉跡からなる官衙遺跡である。群馬県南部の赤城山から利根川に注ぐ渡良瀬川によって形成された大間々扇状地の西端に所在する。遺跡の北及び北東部には複数の湧水点が所在し、遺跡はこれらの湧水から流れる川によって舌状に開析された微高地上に立地している。同一台地上の北1㎞の地点には7世紀後半に建立された上植木廃寺や創建期瓦窯跡である上植木廃寺瓦窯跡が位置する。また、遺跡の東に広がる沖積地では、大道西遺跡において上野国佐位郡正倉跡に向かう版築状の盛土を伴う古代道路跡が発見されており、遺跡は古代佐位郡の中心地域にあったことが窺える。佐位郡司は『続日本紀』によると、檜(ひの)前部(くまべの)君(きみ)氏(うじ)とされ、采女として檜前部老刀自が都にのぼり、称徳天皇に重用され、五位の位階とともに「上野佐位朝臣」の姓を賜り、上野国造にも任じられたとされている。 上野国佐位郡正倉跡は、奈良・平安時代の遺跡である三軒屋遺跡として周知されており、平成14年度に殖蓮公民館建設に伴い、伊勢崎市教育委員会によりはじめて発掘調査が行われ、礎石建物が検出され現地保存された。その後、平成16年度と平成17年度には殖蓮小学校のプールや体育館建設に伴う発掘調査が行われ、礎石建物や掘立柱建物が多数検出された。とくに八角形建物が検出され、後に述べるように『上野国交替実録帳』に「八面甲倉」と記載のある建物と一致したことにより現地保存され、その後、平成25年度まで19次にわたる発掘調査が実施されてきた。 これまでの調査によって、幅3~4m、深さ1.6mほどの大溝により区切られた、北辺約176m、東辺約320m、南辺約230m、西辺約286mの台形の区画が見つかった。大溝によって区画された敷地面積は約6万㎡であり、その中に礎石建物15棟、掘立柱建物40棟以上の倉庫群が検出された。倉庫群は計画的に配置されていたことが明らかであり、正倉跡と考えられる。また、北辺と西辺の大溝が接続する北西角は、長径約14mの池状遺構となっており、白色粘土が張られて水が溜まることから防火施設の可能性が想定される。他に区画内外から小規模な鍛冶炉などの工房跡も検出されている。 遺構変遷は出土遺物から、5期に区分された。Ⅰ期は7世紀後半から7世紀末で、Ⅱ期は8世紀初頭から中頃、Ⅲ期は8世紀中頃から後半、Ⅳ期は9世紀前半、Ⅴ期は9世紀後半から10世紀である。大溝による区画は、8世紀中頃から後半にかけて正倉跡が整備されるのと同時に成立したものと考えられる。倉庫群は8世紀中頃以前のⅠ期、Ⅱ期には掘立柱建物が主体で、8世紀中頃のⅢ期以降に礎石建物に変化していくことが判明している。そしてⅤ期には再び小型の掘立柱建物に変化する。出土遺物は土師器、須恵器の破片等のみで非常に少なく、火災の痕跡や炭化米などは検出されていない。区画東辺の外側では、区画が成立する以前のⅡ期の建物群が検出されている。 この遺跡で注目されるのは、平成17年度の第3次調査において発見された八角形礎石建物である。この建物は総地業を伴い、礎石据付痕跡が33箇所確認され、建物の規模は南北15.3m、東西14.7mである。正倉跡では最大規模で、中核をなす建物である。建立年代は、Ⅳ期に想定されたが、建物下層にもほぼ同規模の掘立柱建物を検出し、その柱配置などから、やはり八角形倉庫であったと想定された。佐位郡正倉跡では、Ⅱ期から施設の中心的建物として、八角形倉庫が造られていたことが明らかとなった。 『上野国交替実録帳』(長元3年(1030))には佐位郡正倉に「八面甲倉」という記述がある。「八面甲倉」は校倉造りの高床式倉庫に比定されており、倉庫が北や中、中南などの複数のグループに分かれていることや、東西方向の列が複数あったことが読み取れる。これは発掘調査によって検出された遺構配置とも概ね符合している。このように『上野国交替実録帳』の記載内容と、遺構として確認された建物とを対比、検討できるようになり、三軒屋遺跡が上野国佐位郡正倉跡であることが確実となった。 このように上野国佐位郡正倉跡は、文献と発掘調査によって検出された遺構が一致する事例として貴重である。また、遺構は良好に保存されており、古代官衙遺跡の実態を具体的に知る上でも極めて重要である。よって史跡に指定して保護を図るものである。