国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
上牧久渡古墳群
ふりがな
:
かんまきくどこふんぐん
上牧久渡古墳群(全景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
古墳前期~後期
年代
:
西暦
:
面積
:
17362.33 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
68
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.10.07(平成27.10.07)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
奈良県
所在地(市区町村)
:
奈良県北葛城郡上牧町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
上牧久渡古墳群(全景)
解説文:
詳細解説
奈良盆地西部に広がる馬見(うまみ)丘陵(きゅうりょう)の西側に所在する独立丘陵上に位置し,少なくとも7基の古墳からなる。3号墳は,丘陵北側の尾根の先端に位置し,一辺15m程度の墳丘を持つと考えられる。埋葬施設は組合式木棺が3基確認され,このうち墳丘の中心部に位置する組合式木棺からは,中国製の画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)1面のほか,鉄槍(てつやり),鉄剣(てっけん),鉄鏃(てつぞく)及び土師器(はじき)甕(かめ)の破片が出土した。これらの遺物から築造時期は3世紀中頃と考えられる。なお,画文帯神獣鏡は史跡和泉黄金塚(いずみこがねづか)古墳(大阪府)出土鏡と同型鏡である。
1号墳は丘陵頂部に立地し,長径約33m,短径約28mの墳丘が確認され,地形から推定すると墳長60m程度の前方後円墳であった可能性もある。出土した土器片の年代から古墳時代前期に築造されたと考えられる。このほかの古墳は,6世紀後半から7世紀中頃にかけての円墳である。
上牧久渡古墳群はこれまで古墳の空白地帯であった奈良盆地西部の丘陵上に立地し,特に3号墳は規模や構造が同時期に築かれた奈良盆地東南部の古墳と大きく異なる。大和政権成立期の諸集団の勢力関係を考える上で極めて重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
上牧久渡古墳群(全景)
上牧久渡古墳群(2号墳 石室)
上牧久渡古墳群(3号墳出土 画文帯環状乳神獣鏡)
写真一覧
上牧久渡古墳群(全景)
写真一覧
上牧久渡古墳群(2号墳 石室)
写真一覧
上牧久渡古墳群(3号墳出土 画文帯環状乳神獣鏡)
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解説文
奈良盆地西部に広がる馬見(うまみ)丘陵(きゅうりょう)の西側に所在する独立丘陵上に位置し,少なくとも7基の古墳からなる。3号墳は,丘陵北側の尾根の先端に位置し,一辺15m程度の墳丘を持つと考えられる。埋葬施設は組合式木棺が3基確認され,このうち墳丘の中心部に位置する組合式木棺からは,中国製の画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)1面のほか,鉄槍(てつやり),鉄剣(てっけん),鉄鏃(てつぞく)及び土師器(はじき)甕(かめ)の破片が出土した。これらの遺物から築造時期は3世紀中頃と考えられる。なお,画文帯神獣鏡は史跡和泉黄金塚(いずみこがねづか)古墳(大阪府)出土鏡と同型鏡である。 1号墳は丘陵頂部に立地し,長径約33m,短径約28mの墳丘が確認され,地形から推定すると墳長60m程度の前方後円墳であった可能性もある。出土した土器片の年代から古墳時代前期に築造されたと考えられる。このほかの古墳は,6世紀後半から7世紀中頃にかけての円墳である。 上牧久渡古墳群はこれまで古墳の空白地帯であった奈良盆地西部の丘陵上に立地し,特に3号墳は規模や構造が同時期に築かれた奈良盆地東南部の古墳と大きく異なる。大和政権成立期の諸集団の勢力関係を考える上で極めて重要である。
詳細解説▶
詳細解説
上牧久渡古墳群は、奈良盆地西部に広がる馬見(うまみ)丘陵の西側に所在する標高約70mの独立丘陵上に位置している。馬見丘陵の東側と中央には、新山古墳をはじめとする古墳時代前期後半から後期まで古墳が存在しているが、西側では後期の小規模な円墳が認められているに過ぎない。 本古墳群が所在する独立丘陵上でも、これまで中央頂部に直径20mの円墳1基(1号墳)が知られているのみであったが、平成23年に当該地に開発計画が生じたため、上牧町教育委員会が現地踏査及び地形測量を実施したところ、丘陵南半部に3基の円墳が存在していることが明らかになった。さらに、丘陵北半部において試掘調査を実施したところ、新たに方墳1基と円墳2基が確認され、丘陵全域に少なくとも7基の古墳が存在していることが明らかになった。 本古墳群で最初に築造されたと考えられるのは3号墳で、丘陵北側の尾根の先端に位置する。墳丘の流出が認められるが、墳丘の西裾を画すると考えられる溝が検出され、この溝と主体部との位置関係や地形から一辺15m程度の墳丘を持つと考えられる。埋葬施設は組合式木棺が3基確認された。このうち墳丘の中心部に位置し、最も規模の大きい全長4.9mの組合式木棺からは、中国製の画文帯神獣鏡1面のほか、鉄槍、鉄剣、鉄鏃及び土師器甕の破片が出土した。これらの遺物から築造時期は3世紀中頃と考えられる。なお、この画文帯神獣鏡は史跡和泉黄金塚古墳(大阪府)と同型鏡であり、古墳時代前期に属する古墳から画文帯神獣鏡の同型鏡が出土した希有な事例である。 1号墳は丘陵頂部に立地し、当初は直径20mの円墳と考えられていたが、発掘調査の結果、長径約33m、短径約28mの墳丘が確認された。また、削平等により確定できなかったが、地形から推定すると墳長60m程度の前方後円墳であった可能性もある。出土した土器片の年代から古墳時代前期に築造されたと考えられる。 4号墳は3号墳の墳丘を一部破壊して築造された、長径約20mのやや歪んだ円墳である。長さ3.5m、幅0.6mの木棺の痕跡が確認され、棺外より須恵器と玉類が出土した。これらの年代から6世紀後半の築造と考えられる。 5号墳は丘陵北側の西側斜面に築造された直径約18mの円墳である。墳丘の東側にはコの字状を呈する周溝も確認されている。2基の埋葬施設が確認され、須恵器や鉄製刀子などが出土した。これらの遺物から築造時期は6世紀末から7世紀初頭と考えられる。また、西側の周溝などから中国の鏡片が2片、出土している。前期古墳に伴うものである可能性が高く、3号墳のほかにも付近に前期古墳が存在したと考えられる。 2号墳は丘陵の南斜面のほぼ中央に位置する直径約16mの円墳である。墳丘の北側には東西幅が約30mに達する規模の大きな掘割が認められる。埋葬施設は横穴式石室であり、玄室長4.0m、玄室幅1.9m、羨道長約5.0mで、石室の床面には凝灰岩の砕石が敷き詰められており、玉類や刀装具、鉄鏃や須恵器、平瓦などが出土した。また、横穴式石室の東側では箱式石棺が1基確認されている。築造年代は7世紀中頃と推定される。 6号墳と7号墳は丘陵南西部に築造されており、それぞれ直径16mと18mの円墳である。6号墳の墳丘周辺から土師器や平瓦が出土しており、7号墳については遺物が確認されていないが、ともに7世紀中頃の築造と推定される。 このように、上牧久渡古墳群は古墳時代前期と終末期を中心とする古墳群であるが、このうち3号墳は奈良盆地の中でも最古級の古墳である。また、同時期の古墳が奈良盆地東南部の平野部に築かれるのに対して、これまで同時期の古墳の空白地帯であった西部の丘陵上に立地し、規模や構造も東南部の古墳と大きく異なることは、大和政権成立期の諸集団の勢力関係を考える上で極めて重要である。よって史跡に指定し、その保護を図ろうとするものである。