国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
アマミクヌムイ
ふりがな
:
あまみくぬむい
アマミクヌムイ(こはおの御嶽)
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
16世紀~18世紀
年代
:
西暦
:
面積
:
184923.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
69
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.10.07(平成27.10.07)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.花樹、花草、紅葉、緑樹などの叢生する場所,十.山岳、丘陵、高原、平原、河川
所在都道府県
:
沖縄県
所在地(市区町村)
:
沖縄県国頭郡今帰仁村・南城市
保管施設の名称
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所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
アマミクヌムイ(こはおの御嶽)
解説文:
詳細解説
アマミクは琉球開闢(かいびゃく)神話にまつわる琉球国の国土創生神で,琉球王府が編纂を命じた歌謡集『おもろさうし(おもろそうし)』,琉球国の正史である『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』など4つの史料に登場する。神話は,天上界の主神である天帝の命により,天上から降臨したアマミクが順を追って御嶽を創造し,琉球国土の起源となったと伝える。それらは,沖縄本島及びその周辺の島において,今もなお独特の地形・植+U17生から成る聖地としての良好な風致景観を伝える。開闢神話にまつわる御嶽は13か所から成り,今回はそのうちの条件が整った2か所を指定する。
「今鬼神ノカナヒヤフ(テンチジアマチジ)及びこはおの御嶽(クバの御嶽)」は,沖縄本島北部西岸の本部半島の北辺に位置する今帰仁(なきじん)グスク及びその南方の小丘に所在し,『おもろさうし』の歌謡がそれらを崇める今帰仁グスクの按司(あじ)を誉め,聖地としての風致を豊かに謡い上げた2つの御嶽である。
「久高コハウ森(久高のフボー御嶽)」は,沖縄本島南部の知念半島沖に浮かぶ久高島にあり,琉球王府が国家的に重視していた御嶽で,固有の地形・地質及び植生が幽邃(ゆうすい)な聖地としての風致を伝える。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
アマミクヌムイ(こはおの御嶽)
アマミクヌムイ(今鬼神ノカナヒヤフ)
アマミクヌムイ(久高コハウ森)
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アマミクヌムイ(こはおの御嶽)
写真一覧
アマミクヌムイ(今鬼神ノカナヒヤフ)
写真一覧
アマミクヌムイ(久高コハウ森)
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解説文
アマミクは琉球開闢(かいびゃく)神話にまつわる琉球国の国土創生神で,琉球王府が編纂を命じた歌謡集『おもろさうし(おもろそうし)』,琉球国の正史である『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』など4つの史料に登場する。神話は,天上界の主神である天帝の命により,天上から降臨したアマミクが順を追って御嶽を創造し,琉球国土の起源となったと伝える。それらは,沖縄本島及びその周辺の島において,今もなお独特の地形・植+U17生から成る聖地としての良好な風致景観を伝える。開闢神話にまつわる御嶽は13か所から成り,今回はそのうちの条件が整った2か所を指定する。 「今鬼神ノカナヒヤフ(テンチジアマチジ)及びこはおの御嶽(クバの御嶽)」は,沖縄本島北部西岸の本部半島の北辺に位置する今帰仁(なきじん)グスク及びその南方の小丘に所在し,『おもろさうし』の歌謡がそれらを崇める今帰仁グスクの按司(あじ)を誉め,聖地としての風致を豊かに謡い上げた2つの御嶽である。 「久高コハウ森(久高のフボー御嶽)」は,沖縄本島南部の知念半島沖に浮かぶ久高島にあり,琉球王府が国家的に重視していた御嶽で,固有の地形・地質及び植生が幽邃(ゆうすい)な聖地としての風致を伝える。
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詳細解説
アマミクは、琉球開闢(かいびゃく)神話に登場する琉球国の国土創生神である。神話は、天上界の主神である天帝の命により、天上から降臨したアマミクが順を追って御嶽を創造し、琉球国土の起源となったと伝える。それらは、沖縄本島及びその周辺の島において、今もなお独特の地形・植生から成る良好な風致景観を伝える。 琉球開闢神話は、琉球王府が編纂を命じた4つの史料に登場する。1531年・1613年・1623年に奄美・沖縄の古歌謡「おもろ」を採録した沖縄最古の歌謡集『おもろさうし』をはじめ、1650年に羽地朝秀(はねじちょうしゅう)(向象賢(しょうじょうけん))が琉球国の正史として編纂にあたった『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』、1713年に王府における諸行事・儀式も含め最初の地誌として完成した『琉球国由来記』、さらに王朝末期にあたる1875年に最高神女である聞得大君(きこえおおぎみ)の儀礼の概要を整理した『聞得大君御殿並御城御規式之御次第(きこえおおぎみうどぅんならびにうぐすくおぎしきのおんしだい)』(以下、『御次第(おんしだい)』という。)の4つである。そのうち、特に『中山世鑑』の冒頭には「巻一 琉球開闢の事」として、阿摩美久(あまみく)(アマミク)が天上から土石草木を降ろし、国頭(くにがみ)の「辺戸(へど)ノ安須森(あすむい)」、次に「今鬼神(なきじん)ノカナヒヤフ」、さらには「知念森(ちねんむい)」・「斎場嶽(せーふぁたき)」・「薮薩(やぶさつ)ノ浦原(うらばる)」・「玉城アマツゝ(たまぐすくあまつづ)」・「久高(くだか)コハウ森(むい)」を経て「首里森(すいむい)」・「真玉森(まだまむい)」に至るまで、順に9つの御嶽を造り国土を創造したと伝える。 上記の9つ以外に、『おもろさうし』では「ごゑく」を、『琉球国由来記』では「伊祖(いそ)の嶽(たき)」を、『御次第』では「こはおの御嶽」・「弁之御嶽」をそれぞれ記す。こうして琉球王府の後期の段階ではアマミクの開闢神話に関わる御嶽は計13となった。それらのうち今回指定するのは条件の整った以下の2つで、正史である『中山世鑑』の表記を中心としつつ、現在もなお拝所として重要な聖地となっていることに鑑みて現代の呼称を付記することとする。両者は、琉球地方に独特の石灰岩又は琉球石灰岩の地形を深い常緑広葉樹の樹叢が覆い、琉球国の聖地として優秀な風致景観を伝える。 「今鬼神ノカナヒヤフ(テンチジアマチジ)及びこはおの御嶽(クバの御嶽)」は、『中山世鑑』の「今鬼神ノカナヒヤフ」及び『御次第』の「こはおの御嶽」の2箇所から成り、『おもろさうし』の歌謡はカナヒヤフを崇める今帰仁グスクの按司(あじ)を誉め、2つの御嶽の聖地としての風致を豊かに謡い上げる。 カナヒヤフは、今帰仁グスクの御内原(うーちばる)に位置する御嶽である。今帰仁グスクは沖縄本島北部西岸の本部半島の北辺にあたり、標高約85mの石灰岩から成る台地上に位置する。琉球国の統一後には、王府にとって沖縄本島北部の防衛の要となるとともに、最も神聖なカナヒヤフを含め、グスクの全体が重要な聖地であり続けた。低い石積みで囲んだ10m四方の空間に今帰仁グスクの守護神の依代(よりしろ)となるイビ(神石)が立つカナヒヤフは、いつの頃からかテンチジアマチジと呼ばれるようになった。 こはおの御嶽(クバの御嶽)は今帰仁グスクから約500m南方に位置する標高200mの小丘で、もとはクバ(ビロウ)が全体を覆っていたが、現在はイヌビワ・ガジュマルなどの常緑広葉樹が優占する。参道の中腹に祭祀場があり、頂上にイビが立つ。 両者は今もなお地域の人々が祭祀を行うなど重要な拝所となっており、今帰仁グスクの全体を含め、聖地としての優秀な風致を伝える。 「久高コハウ森(久高のフボー御嶽)」は、沖縄本島南部の知念半島から東約5kmの海上に浮かぶ久高島の中で最も重要な御嶽で、周囲約7.75kmの久高島の中央部西岸付近に位置する。『おもろさうし』にも聖地としての風致を謡った歌謡が登場するほか、『中山世鑑』には「久高コハウ森」と記し、久高島北端のカベールの浜から上陸したアマミクが、天から持って降った五穀の種子のうち「麦粟菽黍(むぎあわまめきび)」を久高島に蒔き、琉球における穀物栽培の発祥となったことを伝える。収穫した麦を王府に献上したことから、国王は毎年2月に「久高ノ行幸」を行うようになったとも記し、王府が久高島を国家的に重要な聖地と見なしていたことがわかる。ビロウを指すコハウ又はフボーは今なお御嶽の随所に叢生し、幽邃な聖地としての風致を伝える。 以上のように、アマミクの琉球開闢神話にまつわる2つの御嶽は、それぞれアマミクヌムイ(アマミクの杜)の呼称に相応しい琉球固有の地形・地質及び植生から成り、琉球国の歴史・文化を語る上で不可欠の風景地である。神話にまつわる一連の聖地の風致景観が持つ観賞上の価値及び学術上の価値は高く、名勝に指定し保護を図るものである。