国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
本證寺境内
ふりがな
:
ほんしょうじけいだい
本證寺境内(遠景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
38
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2023.09.28(令和5.09.28)
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
愛知県
所在地(市区町村)
:
愛知県安城市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
本證寺境内(遠景)
解説文:
詳細解説
本證寺境内は,三河一向一揆(永禄6年〈1563〉から同7年)にあたり,家康と敵対した中心寺院のひとつである本證寺の境内地である。本證寺は鎌倉時代後期の創建とされ,一揆収束後は,家康による一向宗の改宗命令を拒否したことにより,主要堂宇(どうう)は破却され,坊主衆も国外退去となったと伝えられる。天正13年(1585)の赦免後,慶長7年(1602)の本願寺の東西分派の際には,東本願寺方につき,中本山(ちゅうほんざん)の位置づけを与えられ,三河国の触頭としての役割も担った。
本證寺境内は,本堂と庫裏を囲む内堀と,東西約320m,南北約310mの規模の外堀からなる二重の構造を成すことが,安城市教育委員会による発掘調査や地籍図等の分析から明らかとされている。堀は土塁を伴い,戦国期(16世紀前半)に遡るものである。
本證寺境内は,徳川家康が三河を統一する画期となった三河一向一揆に関わる寺院境内地として重要であるとともに,浄土真宗寺院の伽藍の在り方をはじめ,我が国の仏教信仰の在り方を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
本證寺境内(遠景)
本證寺境内(本堂)
本證寺境内(内堀と鼓楼)
本證寺境内(鐘楼)
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本證寺境内(遠景)
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本證寺境内(本堂)
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本證寺境内(内堀と鼓楼)
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本證寺境内(鐘楼)
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解説文
本證寺境内は,三河一向一揆(永禄6年〈1563〉から同7年)にあたり,家康と敵対した中心寺院のひとつである本證寺の境内地である。本證寺は鎌倉時代後期の創建とされ,一揆収束後は,家康による一向宗の改宗命令を拒否したことにより,主要堂宇(どうう)は破却され,坊主衆も国外退去となったと伝えられる。天正13年(1585)の赦免後,慶長7年(1602)の本願寺の東西分派の際には,東本願寺方につき,中本山(ちゅうほんざん)の位置づけを与えられ,三河国の触頭としての役割も担った。 本證寺境内は,本堂と庫裏を囲む内堀と,東西約320m,南北約310mの規模の外堀からなる二重の構造を成すことが,安城市教育委員会による発掘調査や地籍図等の分析から明らかとされている。堀は土塁を伴い,戦国期(16世紀前半)に遡るものである。 本證寺境内は,徳川家康が三河を統一する画期となった三河一向一揆に関わる寺院境内地として重要であるとともに,浄土真宗寺院の伽藍の在り方をはじめ,我が国の仏教信仰の在り方を知る上で重要である。
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詳細解説
本證寺境内は、三河一向一揆の中心寺院のひとつであった本證寺の境内地である。 本證寺は鎌倉時代後期の創建とされ、15世紀後半に本願寺蓮如(れんにょ)の布教により一向宗に転じた上宮寺(じょうぐうじ)・勝鬘寺(しょうまんじ)(いずれも岡崎市)とともに三河三か寺(じ)と呼ばれ、三河一向一揆(永禄6年〈1563〉から同7年)により、徳川家康と敵対した寺院のひとつである。一揆収束後は、家康による一向宗の改宗命令を拒否したことにより、主要堂宇は破却され、坊主衆も国外退去となったと伝えられる。天正13年(1585)の赦免後、慶長6年(1601)に寺領の範囲の確認と安堵がなされ(本證寺所蔵「伊奈忠次絵図証文」)、同9年の検地では69石余が本證寺領として認められた。同7年の本願寺の東西分派の際には、三河三か寺は東本願寺方につき、中本山(ちゅうほんざん)の位置付けを与えられた。江戸時代を通じて本山と末寺を繋ぐとともに、領主からの命令を配下の寺院に伝達し、逆に配下寺院からの訴願を寺社奉行に取り次ぐ三河国の触頭(ふれがしら)としての役割も担い、幕末には200余の末寺を有する大寺となった。寛政年間(1789-1801)に作成された絵図(本證寺所蔵「本證寺伽藍絵図」)には二重に廻らされた堀と、その内堀のなかに多くの建造物が描かれ、内堀と東側の外堀との間には「百姓家」が展開することが表現されている。「百姓家」は、天正13年に諸役を免除された「家来卅間」の屋敷地を継承するものと考えられる。明治の本末制度の解体等を経つつも、多くの寺宝や、東向きに建つ本堂(県指定文化財)のほか、鼓楼、鐘楼、経蔵(以上、市指定文化財)など、江戸時代の建物が残されている。 外堀は東側と北側が2か所のみ池と窪地として痕跡を確認できるのみであり、本堂と庫裏とをそれぞれ囲む内堀は、前者は現在も水堀として残り、後者は東から北にかけては空堀となり、西側は埋め立てられている。また、堀に伴う土塁は、現境内北側の墓地周辺等に外堀と内堀に伴うものが遺存するのみであるが、こうした堀と土塁を伴う伽藍の配置は特異なものであり、「城郭伽藍」の名称で注目されてきた。 安城市教育委員会による発掘調査と地籍図等からの境内地の復元により、境内地は東西約320m、南北約310mの外堀によって囲まれていることが明らかとなった。また、外堀の断面形態にはV字形のものと、その上部に掘削された幅広い緩傾斜のものの二つがあり、出土遺物等から前者は戦国期(16世紀前半)、後者は江戸時代後期(18世紀後半から19世紀前半)のものであることが明らかとされている。区画内部からは江戸期の遺構のほか、戦国時代に遡る土坑などが検出されている。外堀で囲まれた範囲は字「野寺」の範囲にほぼ一致する。天正14年(1586)の「石川家成書状」(本證寺所蔵)にみえる「堀廻」が外堀をさしている可能性は高く、「野寺」以前は「地内(寺内)」と呼ばれていたことを勘案すると、「伊奈忠次絵図証文」にみえる「寺内築地之内」の中核を成す範囲にあたり、本堂高欄の寛文3年(1663)銘の擬宝珠にみる「寺内之者共」の「寺内」など、外堀内部の宅地部分を含んで「寺内」が成立していたことが明らかである。 このように本證寺境内は主要伽藍を囲む内堀と「百姓家」を含む外堀で囲まれた範囲の二重の構造をなしている。本證寺境内は、徳川家康による三河の統一戦にあたり対立した三河一向一揆に関わる寺院境内地として重要であるとともに、浄土真宗寺院の伽藍の在り方をはじめ、我が国の仏教信仰の在り方を知る上で重要であることから、史跡に指定し、保護の万全を図るものである。