国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
三田村氏庭園
ふりがな
:
みたむらしていえん
三田村氏庭園(全景)
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
769.38 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
39
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.公園、庭園
所在都道府県
:
福井県
所在地(市区町村)
:
福井県越前市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
三田村氏庭園(全景)
解説文:
詳細解説
福井の武生(たけふ)盆地の東方山麓にあたる今立五箇(いまだてごか)地区は,中世後期から高品質を誇る越前和紙の生産地として著名であり,その中でも近世初頭より和紙の生産・販売に関する権益・地位を独占してきたのが三田村氏である。現在の三田村氏の住宅・工房の背後にあたる敷地北半部には,築山・滝石組み・中島などから成る池泉庭園が伝わる。
東西約30m,南北約25mの庭園の中央に中島を擁する石組みの池泉があり,庭園の北辺から東辺にかけて高さ約2mの築山が巡る。西岸の主屋縁先の飛び石及び南岸の園路を伝い歩くことにより,北岸中央に石で組んだ高低差約90cmの滝をはじめ,北西岸付近の築山の斜面に組んだ立石を中心とする景石(けいせき)群など,変化に富んだ築山泉水庭の景致を望むことができるほか,庭外には標高326mの大徳山(だいとくさん)を展望することもできる。また,明治4年(1871)の写本とされる彩色鳥瞰図(さいしきちょうかんず)に描く庭園の形姿からは,現在の庭園が幕末の状態を継承していることが判る点でも貴重である。
地形及び建築配置を活かした独特の意匠・構成が幕末の絵図資料とも照合できることから,芸術上の価値及び日本庭園史における学術上の価値は高い。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
三田村氏庭園(全景)
三田村氏庭園(滝石組み)
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三田村氏庭園(全景)
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三田村氏庭園(滝石組み)
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解説文
福井の武生(たけふ)盆地の東方山麓にあたる今立五箇(いまだてごか)地区は,中世後期から高品質を誇る越前和紙の生産地として著名であり,その中でも近世初頭より和紙の生産・販売に関する権益・地位を独占してきたのが三田村氏である。現在の三田村氏の住宅・工房の背後にあたる敷地北半部には,築山・滝石組み・中島などから成る池泉庭園が伝わる。 東西約30m,南北約25mの庭園の中央に中島を擁する石組みの池泉があり,庭園の北辺から東辺にかけて高さ約2mの築山が巡る。西岸の主屋縁先の飛び石及び南岸の園路を伝い歩くことにより,北岸中央に石で組んだ高低差約90cmの滝をはじめ,北西岸付近の築山の斜面に組んだ立石を中心とする景石(けいせき)群など,変化に富んだ築山泉水庭の景致を望むことができるほか,庭外には標高326mの大徳山(だいとくさん)を展望することもできる。また,明治4年(1871)の写本とされる彩色鳥瞰図(さいしきちょうかんず)に描く庭園の形姿からは,現在の庭園が幕末の状態を継承していることが判る点でも貴重である。 地形及び建築配置を活かした独特の意匠・構成が幕末の絵図資料とも照合できることから,芸術上の価値及び日本庭園史における学術上の価値は高い。
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詳細解説
福井嶺北(れいほく)地方の中央にあたる武生(たけふ)盆地の東方山麓には、中世後期から高品質を誇る越前和紙の生産地として著名な今立五箇(いまだてごか)地区の集落が広がる。その中でも、近世初頭より越前奉書(ほうしょ)・越前鳥(とり)の子(こ)などの和紙の生産・販売に関する権益・地位を独占し、五箇における製紙の紙匠としての役割を担ってきたのが三田村氏である。現在の三田村氏の住宅・工房の背後にあたる敷地北半部には築山・滝石組み・中島などから成る池泉庭園が伝わり、和紙取引により築いた福井藩のみならず江戸幕府及び京都の権門寺社との強い繋がりの下に、三田村氏が江戸・京都の庭園文化を受容してきたことを示している。 庭園は、表の通り及び表門から現在の主屋の玄関へと至る導入路を経て、主屋と工房との間の通路の先に広がる。西辺は主屋に、南辺から東辺にかけては工房に面し、北辺は隣接道路との境界を成す木塀が巡る。現在の主屋は、三田村氏に伝存する普請の契約書により、明治10~12年(1877~79)の建造であることが判る。 東西約30m、南北約25mの庭園の中央は、中島を擁する石組みの池泉が占める。水は、敷地東辺の北寄りからほぼ直線状に西に向かって延びる石組みの溝により導き、北岸の中央付近に石で組んだ高低差約90cmの滝から池泉へと落ち、さらに池泉の南西隅部から石組み溝によって庭外へと流れ去る。池泉の縁辺部にあたる庭園の北辺から東辺にかけては、高さ約2mの築山が巡る。現在の主屋と工房に面する池泉の西岸・南岸は護岸石を直線状に立て並べるのに対し、北岸・東岸は出入りの複雑な石組みの護岸から背後の築山へと地形が連なり、西岸の主屋縁先の飛び石及び南岸の園路を伝い歩くことにより、変化に富んだ築山泉水の景致を望むことができる。池泉の南東岸から中島に向かって2石を繋いで石橋が架かり、さらに中島から池泉北岸に向かって1石から成る今ひとつの石橋が架かる。その先の池泉北西岸付近の築山の斜面には、高さ1.8mもの立石を中心としてやや大ぶりの景石群がある。 主屋の前面にあたる池泉の西岸には長さ2mもの大きな護岸石があるほか、西岸南端付近には直径約1.2mの上面の平らな大きな護岸石が池中へと張り出す。これらの護岸石の付近からは、岩島が浮かぶ池泉の水面、大ぶりの景石により護岸された中島を経て、滝石組み及び立石などを配置した背後の築山に至るまで、左右に広がる庭園の全景及び見るべき景物のほぼすべてを望み見ることができる。さらには、庭外の北東方向約800mに位置する標高326mの大徳山(だいとくさん)の形姿を遥かに展望することもできる。 三田村氏が所蔵する江戸時代後期から幕末にかけての複数葉の指図・絵図によると、現在の主屋の位置に書院・客殿が、工房の位置に当時の主屋が、さらには東岸の小高い平坦地に持仏堂がそれぞれ建ち、現在の庭園は当時の「築山泉水」を継承するものであることが判る。往時は3つの建築の座敷から展望するのみならず、建築を相互に繋ぐ廊下を伝い歩くことにより変化する庭園の景致も楽しんだことがうかがえる。特に明治4年(1871)の写本とされる彩色鳥瞰図に描く庭園の形姿からは、現在の庭園が幕末の状態を継承していることが判る点で貴重である。 以上のように、三田村氏庭園は越前和紙の生産・販売に関わる紙匠の住宅に築造された庭園であり、地形・建築配置を活かした独特の意匠・構成を伝える。絵図史料等により幕末から江戸時代後期に遡る築山泉水庭として旧態を残していることが判る点で貴重であり、大ぶりの景石又は立石、松樹をはじめ多種の庭樹に彩られた現在の風致も優秀である。その芸術上の価値及び日本庭園史における学術上の価値は高く、名勝に指定して保護を図るものである。