国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
水郷柳河
ふりがな
:
すいきょうやながわ
水郷柳河(内堀)
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
明治時代~昭和初期
年代
:
西暦
:
面積
:
184291.88 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
39
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.花樹、花草、紅葉、緑樹などの叢生する場所,十.山岳、丘陵、高原、平原、河川
所在都道府県
:
福岡県
所在地(市区町村)
:
福岡県柳川市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
水郷柳河(内堀)
解説文:
詳細解説
筑後川の河口付近にあたり,沖端川(おきのはたがわ)が有明海へと注ぐ低地には,多くの童謡の作詞で知られ,明治期から昭和初期にかけての日本の代表的な詩人として名高い北原白秋(きたはらはくしゅう)(本名隆吉(りゅうきち),1885~1942)の故郷柳河とその周辺の漁村が広がる。白秋の生家が残る沖端(おきのはた)の漁村及び若き日を過ごした柳河の旧城下の界隈を縦横に巡る掘割(ほりわり)の水面,それらに臨んで深い影を落とす三柱神社(みはしらじんじゃ)・水天宮(すいてんぐう)などの神社境内の樹叢,水面との緊密なつながりを持つ敷地構成・風致に特質がある白秋(はくしゅう)生家(せいか)及び並倉(なみくら)(竝倉)などは,新進の詩人としての地位を確立した抒情小曲集『思ひ出』から,田中善徳(たなかぜんとく)の撮影による写真に詩歌を付した遺稿『水の構圖(こうず)』に至るまで,白秋が数多の作品に描き,それらを生み出す原点となった優秀な風致景観を構成している。白秋は,『思ひ出』において水郷柳河を「静かな廃市(はいし)」と呼び,「さながら水に浮いた灰色の柩(ひつぎ)」と表現した。白秋の詩作活動の背景には,今や静かに廃れ行こうとしつつも,なお光彩陸離(こうさいりくり)たる郷里柳河の水景への強い懐旧の念があった。
水郷柳河の掘割の水面とそれらに臨む神社境内の樹叢などは,白秋の詩作の源泉となった優秀な水景の風致を誇ることから,その観賞上の価値及び学術上の価値は高い。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
水郷柳河(内堀)
水郷柳河(堀割1)
水郷柳河(堀割2)
水郷柳河(並倉)
水郷柳河(北原白秋生家)
写真一覧
水郷柳河(内堀)
写真一覧
水郷柳河(堀割1)
写真一覧
水郷柳河(堀割2)
写真一覧
水郷柳河(並倉)
写真一覧
水郷柳河(北原白秋生家)
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解説文
筑後川の河口付近にあたり,沖端川(おきのはたがわ)が有明海へと注ぐ低地には,多くの童謡の作詞で知られ,明治期から昭和初期にかけての日本の代表的な詩人として名高い北原白秋(きたはらはくしゅう)(本名隆吉(りゅうきち),1885~1942)の故郷柳河とその周辺の漁村が広がる。白秋の生家が残る沖端(おきのはた)の漁村及び若き日を過ごした柳河の旧城下の界隈を縦横に巡る掘割(ほりわり)の水面,それらに臨んで深い影を落とす三柱神社(みはしらじんじゃ)・水天宮(すいてんぐう)などの神社境内の樹叢,水面との緊密なつながりを持つ敷地構成・風致に特質がある白秋(はくしゅう)生家(せいか)及び並倉(なみくら)(竝倉)などは,新進の詩人としての地位を確立した抒情小曲集『思ひ出』から,田中善徳(たなかぜんとく)の撮影による写真に詩歌を付した遺稿『水の構圖(こうず)』に至るまで,白秋が数多の作品に描き,それらを生み出す原点となった優秀な風致景観を構成している。白秋は,『思ひ出』において水郷柳河を「静かな廃市(はいし)」と呼び,「さながら水に浮いた灰色の柩(ひつぎ)」と表現した。白秋の詩作活動の背景には,今や静かに廃れ行こうとしつつも,なお光彩陸離(こうさいりくり)たる郷里柳河の水景への強い懐旧の念があった。 水郷柳河の掘割の水面とそれらに臨む神社境内の樹叢などは,白秋の詩作の源泉となった優秀な水景の風致を誇ることから,その観賞上の価値及び学術上の価値は高い。
詳細解説▶
詳細解説
筑後川(ちくごがわ)の河口付近にあたり、矢部川支流の沖端川(おきのはたがわ)が有明海へと注ぐ低地には、「この道」・「揺籠(ゆりかご)のうた」・「からたちの花」など多くの童謡の作詞で知られ、明治期から昭和初期にかけての日本の代表的な詩人として名高い北原白秋(きたはらはくしゅう)(本名隆吉(りゅうきち)、1885~1942)の故郷柳河と近接の漁村が広がる。白秋の生家が残る沖端の漁村及び若き日を過ごした柳河の旧城下の界隈を縦横に巡る掘割の水面、それらに臨んで深い影を落とす神社境内の樹叢などは、新進の詩人としての地位を確立した抒情小曲集『思ひ出』から、田中善徳(ぜんとく)(1903~63)の撮影による写真に詩歌を付した遺稿『水の構圖(こうず)』に至るまで、白秋が数多の作品に描き、それらを生み出す原点となった優秀な風致景観を構成している。 沖端の酒造家の長男として生まれた北原白秋は、村内の矢留(やどみ)小学校を卒業したのち、旧城下の柳河高等小学校を経て福岡県立中学伝習館へと進学すると、次第に文学の道へと傾倒していった。明治37年(1904)に親友の自殺を契機として伝習館を退学し、上京後に早稲田大学高等予科文科へと進んだ。さらに、与謝野鉄幹・晶子が主宰する新詩社への入・退会の後、木下杢太郎(きのしたもくたろう)・吉井勇などとともに「パンの会」を結成し、明治44年(1911)には上田敏が絶賛した『思ひ出』により近代象徴詩の旗手として注目を集めるようになった。 白秋が通った矢留小学校の新校舎に隣接し、夏季には子どもたちが水浴に使った場所を含め、掘割の水面は旧沖端の漁村を縫うように巡る。その約6km上流の沖端川の二ツ川堰(ふたつかぜき)から二ツ川(ふたつがわ)へと入った分水は、旧城下の東辺から「御家中(ごかちゅう)」と呼ぶ城内(しろうち)地区の外郭を成す掘割へと注ぎ、地区内を縦横に走る掘割を経て、旧城下の南西隅付近から再び沖端川へと合流する。これらの掘割の水面は、古くから城下町・漁村に住む人々にとって、貴重な飲料水の確保及び往来・物資運搬に不可欠の場であったのみならず、白秋の作品の原点を成し、柳河の町を象徴する風致景観として大切にされてきた。 「北原白秋生家」は江戸後期の建造と伝わる商家造りの木造建築で、明治34年(1901)の沖端の大火で奇しくも焼け残った主屋・穀倉から成る。表通りに面する主屋から通り庭を経て裏庭へ出ると、城内地区の外郭の掘割から取水した水路に臨んで石段があり、水面と緊密なつながりをもつ敷地の構成・風致に特質がある。白秋は、酒の黴(かび)・精・匂いが漂う生家の独特の風情を25編の詩歌に託して詠んだ。 城内地区の東辺の掘割に臨む「並倉(なみくら)(竝倉(なみくら))」は、明治期に創業した鶴味噌(つるみそ)醸造の工場敷地及び建築・庭園から成る。主屋及び店舗は明治期の木造建築の佇まいを伝え、大正期の3棟から成る煉瓦造の倉庫建築は今なお麹室として使われている。白秋は臺灣藻(たいわんも)の花が咲き乱れる掘割の水面に、並倉(竝倉)の赤煉瓦の壁が西日を受けて照り映える光景を短歌に詠んだ。 旧城下の北東隅部に位置し、二ツ川に南面する「三柱神社(みはしらじんじゃ)」は、江戸時代後期に柳川藩主立花氏が藩祖を祀るために造営した神社である。広大な境内には流鏑馬の馬場ともなる参道を中軸として、本殿・社務所をはじめ、藩主の茶所であった省耕園(しょうこうえん)、手水舎等が残る。参道の南端に位置する大鳥居・欄干橋から西の二ツ川沿いの風景は、『思ひ出』の「柳河風俗詩」に所収の詩歌の描写と重なる。 「水天宮」は白秋が生まれ育った沖端の漁村の中心を成す神社で、毎年5月の水天宮祭に近隣から多くの参拝客が訪れる。江戸後期に遡る舟舞台囃子をはじめ、水天宮に伝わる習俗は、背後を巡る掘割の水面とともに沖端の漁村の風景の一端を表す。『思ひ出』・『水の構圖』には、それらを詠った複数の詩歌を収める。 白秋は、『思ひ出』において水郷柳河を「静かな廃市(はいし)」と呼び、「さながら水に浮いた灰色の柩(ひつぎ)」と表現した。明治末期に上京した白秋の詩作には、隅田川をパリのセーヌ川に見立て、河畔の西洋料理店を中心に浪漫主義に基づく詩宴を繰り返した「パンの会」に共通の作風がうかがえる。それは近代都市の水辺が持つ風景美の発見への胎動であり、その背景には、白秋が『思ひ出』の「わが生ひたち」に「遠く近く瓏銀(ろぎん)の光を放つてゐる幾多の人工的河水」と記したように、今や静かに廃れ行こうとしつつもなお光彩陸離たる郷里柳河の水景への強い懐旧の念があった。 以上のように、水郷柳河の掘割の水面及びそれらに臨む神社境内の樹叢などは、童謡を含め白秋の詩作の源泉となった優秀な水景の風致を誇ることから、その観賞上の価値及び学術上の価値は高く、名勝に指定し保護を図るものである。